──ああ、そうか。もうG1の季節だなぁ。
出馬表に彼の存在を認めると、ふと呟いてしまうような馬がいる。
競馬に親しんだ時代によって、それがステイゴールドだったり、キセキ、マカヒキだったりするだろう。

競馬歴が長ければ長いほど、名馬たちの顔が浮かんでは消えていく。

私の場合、その筆頭は『最強の2勝馬』と呼ばれた、サウンズオブアースだった。

戦績30戦2勝。G1を含む重賞での2着7回。名立たる名馬の背中を脅かし、もう少しで手が届きそうなのに、結局は届かない悔しい競馬をくり返した。そんな彼の一生懸命な姿はどうしようもなく愛らしく、いつのまにか私は彼の虜になっていた。

──いつかきっとやってくれる。今日こそあいつは主役になる。

勝ちきれない彼の姿に、自分の人生を重ねていたのかもしれない。
そのくせ、馴染みの喫茶店に久しぶりに向かうような安心感を持った。
いつもの席に座って、見知っているナポリタンとブレンドに「これだよ、これ」と、何回も頷いてしまう懐かしさがあった。

しかし、その『喫茶店』は、2023年2月、突然閉店となった。しかもその知らせは後日、風に乗って届いた。

私にとっては、後継店も姉妹店もないような、唯一無二の店だった。

記憶の中でしか、あの名店の味にたどりつくことができない。

はなみずきから始まる物語

父はネオユニヴァース、母はファーストバイオリン。母の華やかな音色もきっと引き継がれただろう子供は『地球のサウンド』という意味を持ったサウンズオブアースと名付けられた。

壮大で、地鳴りが起きそうな彼の走りはどこか滋味深く、優しい音を奏でていた。

2013年10月の新馬戦では、抜群の調教具合や風格のある馬体で注目が集まっており、一番人気に推された。しかし、レース前の放馬や進路どりに注文が残り5着に甘んじる。2戦目では出遅れが響き2着。中一週でもへこたれず、直線伸びる足を見せた3戦目は4着と、勝つことの難しさを、若い頃から味わい続けた。

翌年2月の4戦目でハナ差勝ちを収めると、次に挑んだ若葉Sでは3着。皐月賞には向かわず、その前日である自己条件のはなみずき賞に挑む。

5番手で競馬を進め、サウンズオブアースは直線、外から追い出しを図った。ほかも譲る気配はなく、馬群は混濁する。それでもそれでも彼は前に出た。だが、すぐ内ではストロベリーキングが伸びてきて、同タイミングでゴールに飛び込んだ。

勝負は写真判定に持ち込まれた。
淡い光がサウンズオブアースを照らす。慎ましい、が、魂でもぎとったハナ差。

神様がいるのなら、もっとカッコイイ勝た方をさせてくれてもよかったのに…と、今でも時折思い出す。彼はこの後、先頭の景色を見る事はない。

だからこそ、特別な存在として多くのファンに親しまれ、愛される。

彼の真の物語は、ここから始まる。

何度だって、挑んでやる

次にサウンズオブアースが向かったのは初めてのG2、5月10日の京都新聞杯だった。

ハギノハイブリットに交わされ、ガリバルディに並ばれたゴール板。2着争いはまたも写真判定だった。ハナ差で凌ぎきり、賞金加算によって自らの手でダービーへの道を切り開く。

デビューから1800m、2000ⅿと距離をこなし、プラス200mの今レースでも折り合うことができる高い素質。距離延長のダービーに、ファンの期待は高まるばかりだった。

……ちなみにこの時、7着には後に短距離界を席巻するモーリスがいた。2200m以上を走ったのはこの一回のみで、その後は距離を短縮し才能を開花させる。対するサウンズオブアースは長距離路線に入り、進化を続けることとなる。再戦は二度となかった。あらためて適性距離を見極める重要性を考えさせられるレースだ。運命の分かれ道というものは、なにげないところにあるのかもしれない、と今になると思う。

もちろん、常識や運命を簡単に凌駕する者たちもいる。それもそれで、ぞくぞくするほど面白い。

さて、期待されたダービーはワンアンドオンリーの11着に終わる。格上相手に力負けしたものの、最内を活かした見事な競馬だった。

夏に力を蓄え、神戸新聞杯でリベンジを目指すサウンズオブアース。

レースは終盤、直線で早々に抜け出したワンアンドオンリーに追い風が吹いていた。しかし、猛スピードで外から上がってくるのは、8番人気のサウンズオブアースではないか。最終コーナーでダービー馬の後ろにとりついていた彼は、勝負の瞬間を待っていたのだ。

やや寄れながら──それでも、一生懸命に。

サウンズオブアースは渾身の末脚で、とうとうワンアンドオンリーをとらえる。

だが相手も屈強だ。瞬時に差し返し独壇場に持ち込もうとする。

そして、2頭の壮絶な叩き合いは新たな刺客を呼び覚ます。夏に勝ち上がった新興勢力のトーホウジャッカルだ。一完歩ずつ攻め込んで、ラストは三つ巴の激戦となった。

サウンズオブアースにとって三度目の写真判定。トーホウジャッカルは下したものの、ワンアンドオンリーには、ほんのアタマ差届かない。

しかしこの借りを返すための舞台は、すでに整っていた。

クラシック最終戦、菊花賞。ハイペースの展開に外を周ったダービー馬は力尽きる。内で脚を貯めていたサウンズオブアース、トーホウジャッカルのみが馬群から抜け出すと、もう後続が踏み入ることができない、二頭だけの世界が展開された。

厳しい一騎打ちの果て。サウンズオブアースは半馬身差先に、またしても栄光を置いてきた。

けれど、かつての菊花賞レコードをトーホウジャッカルとともに一秒以上も更新する走りであった。

名誉はなくとも、彼は確実に強い。
彼は競馬ファンの心をにじませ、共鳴させる、揺るがない力があった。

その証拠に、翌年の日経賞では一番人気に支持される。けれど結果は4着、天皇賞春ではゴールドシップの9着となかなか報われない。

それでも彼は諦めなかった。覚醒したラブリーデイの2着で京都記念を終え、ジャパンカップでも掲示板に入る。有馬記念では向正面でまくってきたゴールドシップに惑わされることもなく、まだ3歳だったキタサンブラックの背中を冷静に追いかける。

直線、中山の坂をたくましく駆け上がる。標的に別れを告げ、残るは──菊花賞で何馬身も後ろに振り落としてきたはずの、ゴールドアクターだ。

前の勢いは止まらない。

「神は乗り越えられる試練しか与えない」と、どこかで聞いたような気がする。では、なぜサウンズオブアースはこんなにもつらい道のりを歩むのか。12万人の歓声を、どうか彼に与えてくれ。彼が歩むはずだった、眩しい世界を。

それでも彼が突き進むというのなら。私は信じて、声援を届けよう。
彼が主役になる未来が、きっとあるはずだ。
何度でも挑み続ける彼の闘志に、いつの間にか私も共鳴してしまっていたのかもしれない。

戦いは続いていく。新世代を引き連れて。

数多の背中

2016年、キタサンブラックが隆盛を極め始める。

影響はもちろん、5歳になったサウンズオブアースにも及んでいた。力をつけたキタサンブラックはあまりにも遠く、天皇賞春では15着に沈む。すでに日経賞でゴールドアクターに土をつけられていたサウンズオブアースは、あらゆる反撃を秋に誓う。

しかし、京都大賞典でまたもキタサンブラックに遭遇し、牙城を崩すことは叶わない。

そして迎えた11月27日。第37回ジャパンカップ。

陣営曰く、仕上げは「過去最高の状態」。期待を持って送り出されたサウンズオブアースは後方に待機し、末脚に賭ける。キタサンブラックは逃げを展開。薄暗い小雨の中の一人旅は、永遠に続くかのように思われた。直線、先に仕掛けたのはサウンズオブアースの同期のライバルたちだった。追走していたゴールドアクター、ワンアンドオンリーが追い込みを始めると、キタサンブラックはやすやすと彼等を引き離す。このまま時代はキタサンブラックに傾いてしまうのか。

──そうは、させるか。

伸びきらない同期の分まで、サウンズオブアースは前に出た。遠ざかろうとする背中を必死で追いかけ距離を縮める。だが残り2馬身半まで迫ったものの、キタサンブラックはすでに喝采の中に逃げおおせていた。

くり返される2着。しかし、彼は最強に近い場所にいる。

どうか、いつか、今度こそ…彼の音楽がもう一度鳴り響く瞬間を信じて。

いつからか人々は敬愛をこめて、サウンズオブアースを『最強の2勝馬』と呼んだ。
しかし彼はその称号を更新するために、挑戦の手をゆるめない。

6歳には初めて海を渡り、ドバイシーマクラシックでは6着に入る。夏には洋芝に活路を求め、札幌記念では4着に食い込んだ。3回目の有馬記念ではキタサンブラックの優秀の美を見届け、7歳になっても懸命に走り続ける。ジャパンカップ、3冠牝馬になりたてのアーモンドアイが目の前でレコード勝ちをしようとも──。

ラストランである、4回目の有馬記念。

同い年である障害からの刺客が先を急ごうとも。

サウンズオブアースは自分の競馬を貫いて、末脚にすべてを賭けた。

気が付けば、死闘をくり広げた同期たちはすでにターフを去っていた。

ずいぶんと遠くまで走って来たような気がする。

サウンズオブアースは自らの身を以て全人馬無事完走とし、これからを作っていく後輩たちの背中を見送った。

懐かしい音が、共鳴する

引退後、サウンズオブアースは乗馬となる。けい養先のモモセライディングファームでは人気者だったと聞く。たくさんのファンが彼のもとに訪れ、穏やかな日々を過ごしていた2023年2月13日。大腸炎を発症し天国へ旅立った。12歳だった。

重賞未勝利だったサウンズオブアースの訃報は、JRAで公表されることはない。

後にその事実を知った者たちは、深く驚き、悲しんだ。

それから月日が流れ、懐かしい名前を、ふと耳にした。

彼の音楽が、どこかでふたたび鳴り響き始めたらしい。今日も誰かが初めてサウンズオブアースと出会い、あるいは久しぶりの再会を果たす。きっと、優しくてひたむきな闘志は彼らの中で共鳴し、生き続ける。

そう祈ることぐらいは、神様も許してくれるよな。

だから、ずっとこれからも。共鳴し続けろ、サウンズオブアース。

写真:shin 1、かぼす、Horse Memorys

著者:吉田 梓