碧雲牧場の慈さんからコールバックがあるまでの30分間、僕はあらゆる悪い状況を想定しました。思いつく限り並べてみると、①ダートムーアかスパツィアーレのどちらかが病気になった、もしくは怪我をした(最悪死んでしまった)、②ダートムーアの娘かスパツィアーレの息子のどちらかが病気になった、もしくは怪我をした(最悪死んでしまった)、③ダートムーアのお腹にいる子(父タイセイレジェンド)が消えてしまった、④スパツィアーレがまた受胎していなかった、の大きく分けて4パターンが想像されます。

繁殖牝馬が1頭だったときは、繁殖牝馬自身とそのお腹にいる子だけを心配すれば良かったのですが、繁殖牝馬が増えるとその心配は2倍になり、子どもが生まれるとさらに2倍、いや、動き回る子どもたちの怪我や病気のリスクを考えると2乗に、悪夢の可能性が膨れ上がるのです。

電話の途中に獣医師から連絡が入ったということは、誰かが病気で苦しんでいる、怪我をしてのたうち回っている最中なのかもと想像すると、居ても立っても居られません。生産者として最悪なのは、先日産まれたばかりの仔が亡くなってしまうことでしょうか。走り回っていたら牧柵にぶつかって脚が折れてしまったとか、子ども同士で喧嘩していたら勢い余って頸椎を損傷して腰フラになってしまったとか、両手でも足りないぐらいの最悪な状況が想定できます。ついこの前、触れ合ってきた子どもたちがそのような形で命を落としてしまうのは、想像するだけで耐え難いです。頭の片隅で、保険の入金は間に合ったよなと考えている自分もいて恥ずかしいのですが、夢と希望が詰まった当歳馬がそれぐらいのお金に置き換えられてしまうのはあり得ないと、余計な計算を頭から追い出します。

ダートムーアは14歳とある程度高齢の域にさしかかっていますし、スパツィアーレもかつて開腹手術をしたこともあるように、(たまに腹痛を起こす程度ですが)完全なる健康体ではありません。当歳や1歳馬のように無茶をして怪我をしてしまうことは少ないはずですが、病気のリスクは十分にあり得ます。特にスパツィアーレは、先月、放牧中に急に寝っ転がって苦しみ始めたので獣医師さんに診てもらいました。腸ねん転とかではなく、しばらくすると収まってケロッとしていたと報告を受けましたが、お腹が痛くなってしまう系女子であることは覚えておかなければなりません。

あらゆる最悪な状況を想像していくと、もう生産なんて辞めてしまおうかなという想いが頭によぎります。僕には運がないのだと思いますし、生産の神さまがお前には向いていないよと忠告してくれているような気もします。もういっそのこと、繁殖牝馬も当歳馬もすべて売り払ってしまえば、こんな思いをしなくても良いのですから。堅実なビジネスを地道に続けて、コツコツとお金を貯めて行く方がどれだけ気が楽か。

家族だとまで思っていたダートムーアやスパツィアーレやその子どもたちを手放してしまおうなんて考えるほど、人間の悪い想像は極致までたどり着くものです。僕は売ってしまえばそれで終わりになるかもしれませんが、本物の生産者は牧場に住み、スタッフを抱え、自分たちの生活を馬たちによって成り立たせているのですから、逃げるわけにはいきません。何かあるとすぐにあきらめようとする時点で、僕はまだ生産者でも何者でもないということです。

30分の間にそこまで追い詰められていると、ようやく慈さんから電話がかかってきました。僕がつとめて冷静を装って電話に出ると、慈さんは間を置くことなく、「スパツィアーレはまた受胎していませんでした…」と申し訳なさそうに切り出しました。他の最悪な状況を想定していた僕は、その中でもいちばん最良な④のパターンであったことに内心喜び、「それぐらいのことで良かった」と口には出さないもののひと安心。もちろん、これでスパツィアーレは3回目の不受胎であり、今回は相手をカレンブラックヒルに変更してみても受胎しませんでした。チュウワウィザードとの相性の問題ではなく、スパツィアーレ自身もしくは種付けのタイミング、もっと言うと偶然だったのかもしれません。

実はスパツィアーレは繁殖牝馬としての初年度にロードカナロアを配合したものの不受胎であり、2年目はパドトロワを受胎したのですが流産した経緯があります。その後は4年連続で受胎して出産しましたが、繁殖牝馬として幸先の良いスタートを切ったわけではなかったことからも、難しさのある繁殖牝馬なのかもしれません。最後まであきらめずに手を尽くすつもりですが、どうやっても今シーズンのうちに受胎しないならば、1年の間を開けて、来シーズンに備えても良いと僕は思います。もったいないと慈さんは言うのですが、自然の流れに逆らうよりも、あきらめて次に備えることも大切だと思います。こうしてあっさりとあきらめようとするのもまた、本当の生産者ではないからかもしれません。

このあとすぐに種付けをして2週間後に確認し、それでも受胎していなければ次こそは本当のラストチャンスになります。6月に入ってから受胎したとしても、生まれは早くても5月になってしまいます。いわゆる遅生まれというやつです。もちろん、5月の遅生まれの馬もいるのですが、セリで売るとなると、馬体がその分成長していないので売れにくいのです。遅生まれであることを多少考慮される馬主さんもいますが、基本的にはセリの時点での馬体が立派である方が高く売れるのは事実です。裏を返せば、遅生まれでも馬体が大きければ売れるのですが、同じ馬がもっと早く生まれていればもっと高く売れたと思うと、やはり遅生まれは生産者からすると損でしかありませんね。

遅生まれになると、次の種付け時期が遅くなることも見逃せません。たとえば、5月中旬に生まれたとすると、そこから産後の疲れもケアもそこそこにすぐにイチハツ(1回目の発情)で受胎したとしても、来シーズンもまた5月の遅生まれとなる可能性は高く、その次のシーズンも同じようにと悪循環していきます。来年もまた受胎しにくいなんてことになれば、さらに遅生まれは加速していき、結局いつかの年は不受胎で空胎になるのは目に見えています。サラブレッドの仔が繁殖牝馬のお腹にいる期間は11カ月ですから、出産後にすぐ妊娠すれば、生まれは少しずつ早まっていくと考えていた僕は愚かでした。むしろ上手く行かないことの方が多くて、生まれは少しずつ遅くなっていき、どこかで1年飛ばさなければならないというのが実状ではないでしょうか。

あと2回チャンスはありますので、あきらめるのはまだ早い。そう自分に言い聞かせつつも、せっかくだからもう1度、種牡馬を見直してみる良い機会だと考えるようになりました。

今から思うと、ちょっとでも予定どおりの結果が出ないと、それに反応してしまい、当初の作戦やプランを変更して余計に上手く行かなくなるのは僕の悪い習性です。臨機応変に対応しているのではなく、感情が波打って冷静さを欠き、我を忘れて、バタついてしまっているだけなのです。作戦やプランを変更して上手く行ったことはほとんどなく、変更したことによって失敗したことは数知れず。それを分かっていても、その場の状況や感情に流されてしまって、一貫性を失ってしまうのが僕の弱点です。

ひと晩、考えてみた結果、社台スタリオンステーションのイスラボニータに第一候補を切り替えてみることにしました。社台スタリオンステーションで繋養されている種牡馬の中でも手ごろな種付け料(150万円)であること、産駒は比較的大きく出ること、芝もダートも走るため買いやすく売りやすいこと、それらを全て含めて生産者としてコストパフォーマンスの高い種牡馬であるからです。架空血統表にイスラボニータ×スパツィアーレを入れてみると、サンデーサイレンスの3×4とHail to reasonの5×5以外はほぼアウトクロスとなり、ノーザンダンサーの血が薄い、異系同士のアメリカンな配合に映ります。イスラボニータは父フジキセキも母の父コジーンも筋肉が柔らかくて、年齢を重ねても硬くならないタイプですし、脚元に軽さもあるので、シンボリクリスエス肌との相性は悪くないはずです。スパツィアーレ自身は牝馬としては縦にも横にも大きい馬ですので、どんな種牡馬を配合しても産駒のサイズには心配ないのですが、イスラボニータをつけておけば遅生まれでも問題ない大きさに成長してくれると思います。

ああだこうだ考えて出した結論ですが、ふと我に返ってみると、すでにスパツィアーレにはイスラボニータが配合されていたことに気づきました。スパツィアーレの22は父イスラボニータでした。社台ファームの生産馬の配合は吉田照哉さんが決めることが多いと聞いていましたので、先を越されてしまったというか、僕もようやく照哉さんの領域に達したかと思うと嬉しくなりました(笑)。そして、もしスパツィアーレの22が走ったとしたら、全兄弟であるスパツィアーレの24も高く評価されるかもという打算も働きます。これは先日誕生したスパツィアーレ×ルーラーシップの牡馬にも当てはまることで、スパツィアーレの21(父ルーラーシップ)が活躍してくれると、自ずと同血である弟の価値も上がっていくことになります。このあたりもサラブレッドの生産の面白いところです。

2番手はビッグアーサーにしました。さすがにこのシーズンオフに近い時期になると、人気のビッグアーサーにも空きが出る可能性もあります。種付け料はイスラボニータと同じ150万円ですし、距離適性の幅は狭く(1200m専門)、ダートよりも芝向きとストライクゾーンは狭いのですが、スペシャリストという意味では大きな期待ができそうです。ビッグアーサー自身がノーザンダンサーの4×4×5という濃さのノーザンダンサー系の種牡馬なので、ノーザンダンサーの血をほとんど持たないスパツィアーレとの配合は悪くないはずです。

どちらも人気種牡馬ではありますから、念のため第3候補、第4候補まで入れて、「イスラボニータ→ビッグアーサー→チュウワウィザード→カレンブラックヒルの順でお願いします」と慈さんにはLINEを送りました。

翌日の妊鑑の結果を受けて、慈さんは上から順に「今日〇〇は入れますか?」とスタリオンに問い合わせの電話をかけてくれるでしょう。どの種牡馬が当たるのか(空いているのか)、まるで子どもの頃ガチャガチャを引いたときのように、ドキドキしてしまいます。

(次回へ続く→)

著者:治郎丸敬之