東日本大震災が起こった3月11日がまた巡ってきた。2024年1月1日に起きた能登半島地震の13年前、2011年のことである。

 東日本大震災では「復旧よりも復興」、その前の1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災のときには「創造的復興」という言葉が喧伝された。つまり、単に元に戻すのではなくて、新しいことをしなくてはならないという意味である。しかし、今回、このような言葉は聞かれない。

能登半島地震では、復旧作業が進む(UPI/アフロ)

 岸田文雄首相は、24年1月30日、施政方針演説の冒頭、能登半島地震の犠牲者に哀悼の意を示したうえで「政府・地元が一体となって被災者に寄り添い、生活となりわいを支えていくための息の長い取り組みを続けていく。異例の措置でも、ためらわずに実行していく」と述べた。空虚な言葉ではなく、地道に人々の暮らしを再建すると言った訳だ。

「創造的復興」の惨状

 これは素晴らしいことである。なぜなら、「復旧よりも復興」、「創造的復興」とはまったくの失敗であるからだ。

 例えば、阪神淡路大震災でもっとも被害を受けた神戸市長田区の創造的復興の現実は大惨事と言ってもよいものだ。消防車も通れない住宅密集地域の道路を広げ、延焼を防ぐために公園を作り、耐火性の高い建物にするのは当然である。

 しかし、新たに建設したマンションと拡大した商業施設にテナントが入っていない。新長田駅近くの1階の商店街にはテナントが入っているが、地下や2階、駅から離れればほとんどシャッター通りとなっている。

 地方の駅前通りなど、皆シャッター通りではないか、長田だけが失敗ではないと主張される方もいるかもしれない。しかし、他のシャッター通りは、戦後のある時期に栄えていた商店街が、社会経済状況の変化とともにやむなく衰退したのだ。ところが、長田区は、新たにシャッター通りどころか、ゴーストタウンを造ったのだ。

 元々、長田区のこの地域は、合成皮革を中心としたケミカルシューズ(二葉邦彦「第5部第1章 復興の現況と評価」『震災復興の政策科学』有斐閣、1998年)の製造拠点で、人々は自ら所得を得、誇りを持って生きていた。機械の減価償却は終り、物価も家賃も安いので、所得は低くても生活することができていた。

 ところが、震災によって製造機械を失い、分散して住むことを余儀なくされた人々は、仕事を失い、困窮するか生活保護に頼らざるを得ない状況に陥った。震災前、長田で約5万人が靴の生産で生計をたてていたが、震災によって仕事を失った従業員の「少なくもと3分の1は長田から出ていった」という(京都新聞、1998年1月16日)。