私たちが暮らす現代社会は「数量の世界」です。数によって世界を知り、数によって世界を表現します。数の面白いところは、知ることによって行動が誘発されるところです。

例えば偏差値のように、「勉強力」を数量化した数を知ると「高めたい」と思いはじめて行動が促されます。ウイルスの感染者数のように、健康に悪影響を与える数を知ると「減らしたい」と思い行動が促されます。

誰でも、良い数字は高めたいし、悪い数字は下げたいのです。数はまるで、人々を操る「魔法」のように振る舞います。

世界の数量化と第二次産業革命

サルのような動物は、5くらいまでの離散数を数えることができると言われています。食料を得るときなどに、より多く実の成った木を見分けるためにその能力を使います。人間にも、生得的に数を認識する能力が備わっていると考えられています。

しかし、人間が生得的に持っている「基本的な数量化」の能力が、ただちに現代のような「数で溢れた世界」を作り出したかというと、決してそうではありません。

ギリシャ時代から数学は存在していましたが、世の中の様々な事象を分析したり解析したりするのに使われることはほとんどありまんせでした。ピタゴラスは三平方の定理を知っていました。でも、それを広く応用して現代のような科学を産み出すことはありませんでした。数量と計算が結び付くまでには、とても長い時間がかかりました。近代までは数学と言えば作図のことだったから、というのが大きな理由です。

現代のようにあらゆるものごとが数量化されるようになったのは、19世紀に入ってからのことだと言われています。科学哲学者のイアン・ハッキングはその様子を「第二次産業革命」と呼びました。

人々は突然、あらゆるものごとに数を当てはめ、数式で変化を表現するようになったのです。すると数がまるで魔法のように作用し、人間はあらゆる事象を数と計算でコントロールしようとします。牧歌的だったそれまでの世界は終わりを告げ、やがて近代文明が出現します。幾多の大きな戦争を経て、200年も経つと人間の行動を数量と計算で表現する「AI」が出現するまでに至りました。

「フリーレン」の魔法の世界

最近、第1期の放送が終わった「葬送のフリーレン」ロスに悲しんでいる人は多いと思います。私はアニメから見始めたのですが、真っ先に目に入ったのはドワーフ「アイゼン」の被っている兜でした。ぞんざいなデザインから伝わってくるのは、製鉄はできるけど加工の技術が進んでいない牧歌的な世界である、というメッセージです。指輪物語から連なる正統派のファンタジーを期待して見ていました。数量や数学、そして科学とはまったく縁のない「剣と魔法の世界」をです。

エルフの主人公フリーレンは人間よりはるかに長命、という設定はもはや王道です。魔王討伐を共に戦った勇者や僧侶の死を見送りながら、フリーレンはやがて弟子となる「フェルン」と出会います。その頃から、段々と数量に関わる言葉が現れ始めます。たとえば「魔力量」、「魔力の離散」。

「指輪物語」のトールキンの描く世界には数量的な表現がほとんど出てきません。「白色のガンダルフには10,000以上のMPがある」などと書いてあったら剣と魔法の世界が台無しです。数量的な表現は、正統派のファンタジーとは相性が悪いのです。数量化の表現を排して世界を描いてあるからこそ、「力の指輪」の不気味さと「小さき者」ホビットの勇気が物語の中で際立つのです。

魔力が離散するとか収束するとか、「密度」に関する量の表現を現代人はとても自然に受け入れます。しかし数学の歴史を振り返ると、密度のような量が産み出されるためにはとても時間がかかったのです。まず「魔力」のようなエネルギーが数量化される必要があります。さらに「面積」という別の種類の数量と合わせて「計算」を行ってはじめて、「密度」という新しい数量が生まれます。異なった種類の数量を掛けたり割ったりすることは、長いこと一種の「禁忌」として避けられてきました。

ハイ・ファンタジーの中に複雑な数量的表現が存在するのがフリーレンの世界、ということです。

理系のエルフ

そんな風に考え始めると、作者はどんな世界を描きたかったんだろう、と気になって仕方がなくなり、電子書籍で現在の最新刊である12巻まで読んでみました。アニメに比べると戦闘シーンなどは淡泊ですが、細かいストーリーを楽しむには漫画版の方が向いているかも知れないな、などと思いながら読み進めました。

フリーレンはファッションが現代風です。数量的な表現もそういう味付けの一種か、魔法の世界の現代風解釈なのかも知れない、とも考えました。つらつらと読んでいくと、かつて魔物や特別な人類だけが使うことができた魔法を、人間が使えるようにした「現代の魔法」というものがあるらしい、というセリフが目に入ります。さらにその「解析」にフリーレンが関わっているという設定があり、おやと思いました。

フリーレンはきっと「理系頭」のエルフなのです。それもかなり重度の。そう考えると、怠惰だったり変なモノを収集する癖があったり容易くミミックに騙されるような、およそ大魔法使いに似つかわしくない設定にも納得できます。

理系のエルフは数量化によって魔法を解析し、「ゾルトラーク」のようにかつて魔族だけが使えた高度な魔法を人間が使えるようにしてしまいました。そうやって剣と魔法の世界に「第二の産業革命」の萌芽を起こしたのではないでしょうか。

数量が作った魔法の国

フリーレンの世界では、攻撃魔法は魔方陣から出てきます。防御魔法は球形のハニカム模様が展開されて、まるで昔のロボットアニメを彷彿とさせます。フリーレンが人間の感情に目覚めていったり、フェルンとシュタルクとの心の距離が縮まっていったりといったエモーショナルな展開の中に、数量的な表現に加えてビジュアルにもSF的な要素がちりばめられています。そういう「リアルさ」にやられてしまったのは私だけではないはずです。アニメは、原作にあるその種の要素も補間・増幅していて大変良くできています。

かつて未知の力であった「魔法」を数量化して解析し、「人間」が自由にコントロールできるようになってしまったあの世界では、この先何が起こるのでしょうか。ニーヴンの「魔法の国が消えてゆく」のように魔素(マナ)が枯渇して魔法が使えなくなってしまうのでしょうか。あるいは、やがて魔術文明が現れて、牧歌的な世界が失われて行くのでしょうか。

実際、私たちの住む世界では似たようなことが起こったのです。第二次産業革命を経てからの200年という時間は、エルフの一生と比べればとても短い時間です。人類はそれくらいあっという間に、科学の力で「魔法の国」を作り上げてしまいました。

数量を飼い慣らす

数量化の結果得られた数値を見ると、良い数値なら高めたい、悪い数値なら下げたいという欲求が生まれます。数字の持つ力に従いながら、人類は世界を変えてしまいました。私たちはもはや、牧歌的な世界に戻ることはできません。数量化の持つ魔力はとても強いからです。

偏差値のような数値を知ると、「ただ高めたい」という強い欲求が生まれます。確率や統計を学んで身につけることで、偏差値という数値の正体を知り、偏差値が上がったり下がったりするのはどういうことなのかを、深く理解することができます。

数学を学ぶこととで、数量に「飼い慣らされる」のではなく、「飼い慣らす」ことができるようになるのだと思います。

『偶然を飼い慣らす』
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『葬送のフリーレン』(全12巻)
山田鐘人、アベツカサ(https://www.amazon.co.jp/gp/product/B08KNX1RSQ)