ある日本人監督が言った。「脚本は地図だ」と。確かに緻密な地図であれば足を運ぶ前からその街の輪郭が見えてくる。そう考えると脚本は映画において中心部分に位置する役割を果たすのだが、日本で脚本家に賞を贈る映画賞は、日本アカデミー賞、毎日映画コンクールはあるものの、全体的に極めて少ないのが残念だ。

 しかも日本のメジャー映画では、監督が脚本を書くことは少なく、脚本家が原作を脚色するケースが多い。これは国から予算が出ないことも踏まえ、公開時の集客を懸念して、あえてファンを持つ原作を選び、ファンを持つ俳優に出演してもらうスタイルが固定化されてしまったからだが、外国作品はマーケットを海外と考えて映画賞を狙って制作されるので、オリジナル脚本による映画も非常に多いのだ。

 こう考えて3月11日(日本時間)に授賞式が行われる米アカデミー賞の部門を見ると、しっかり脚色賞と脚本賞に分かれている。いわゆる「ORIGINAL SCREENPLAY」と書かれる脚本賞ノミネートの中で有力視されているのが、今年の米アカデミー賞監督賞ノミネートの中で唯一の女性、ジュスティーヌ・トリエ監督も脚本を務める『落下の解剖学』(2月23日公開)だ。実際、作品賞を含む5部門にノミネートされるほどの評価を得ており、第76回カンヌ国際映画祭では最高賞のパルムドールを手にしている。

 しかも前哨戦と言われるゴールデングローブ賞でも脚本賞を受賞。この脚本をトリエ監督と書き上げたのは彼女の私生活のパートナーであり、終戦時に任務解除の通達が来ず、約30年もフィリピン・ルバング島に潜伏していた小野田少尉の実話を映画化した『ONODA一万夜を越えて』で脚本と監督を務めたアルチュール・アラリだ。

 二人が生み出した物語は、不仲の夫婦に起こった夫転落死が自殺か他殺かを問うミステリーであり、途中から法廷ものに姿を変えていくサスペンスだ。しかし事件の真相を暴くことに焦点を当てず、情報を元に無意識の偏見が生まれる人間の本質を描いたことが斬新として評価されている。

 その理由に妻は夫の母国であるフランスに住むドイツ人で、家庭内では英語を用いているが、法廷では外国人扱いとなり慣れていないフランス語で進行されていく。しかも妻は売れっ子作家、亡くなった夫は教師をしながら視覚障がいの息子の勉強も家で見ていたという設定。もちろん、法廷にはこの二人の関係を平等に見ているはずの息子が傍聴席に座っているのだが、検事が母の過去や私生活を暴露するうちに、感情が揺れ始めるのだ。

  もしこの事件をあなたがニュースで知ったらどうジャッジするだろうか?傍聴席で暴露される彼女の様々な顔を知った時、あなたはどんな印象を彼女に持つのだろうか。家族の為に一生懸命働く女性と見るか。好きな仕事をして夫に育児を任せるわがままな女と見るか。そんな周囲の言葉を聞いて子どもは何を思うのか。

 そして彼女が頼んだ弁護士と彼女の関係は?多角的に彼女を検証しながら、誰かの偏見により人の人生を狂わせることは容易であると伝える本作。そして自分のどこかに偏見はないか、見直すことにもなる映画『落下の解剖学』。家族という普遍的な題材を元に、偏見は誰もが持っているものと突きつける人物設定の構築が連なったミステリーは、これが世界で認められる本なのだと、納得する脚本だった。

(映画コメンテイター・伊藤さとり)