ジュール・ビアンキの悲劇的な事故から10年を迎える年、この週末に第4戦日本GPが行われる鈴鹿サーキットで仲間たちが彼を追悼した。いつものように、シャルル・ルクレール(フェラーリ)とピエール・ガスリー(アルピーヌ)は、フランス人ドライバーの事故現場に歩いて行き、花を捧げ友人を偲んだ。

 ビアンキとほとんど接触のなかった3度のワールドチャンピオンのマックス・フェルスタッペン(レッドブル)でさえ、亡くなっていなければフェラーリF1のドライバーになっていたであろうビアンキについて、人々がまだ話をしているのは本当に素晴らしいことだと認めた。

「あの日々のことはあまり考えたくないものだ」とフェルスタッペン。「もちろん僕は個人的にジュール(・ビアンキ)のことはよく知らなかったが、僕たちには共通の友人がいる。彼は信じられないほどの才能があり、F1で素晴らしいことを成し遂げただろう。誰もがそのことを確信していたと思う」

「このスポーツにとって最悪の日だったが、その日に安全について多くのことを学んだ。残念ながら、安全性を向上させるためには、ときにはこのようなことが起こる必要があるようだ。それは目にしたいことではないが、人生はそのようになっているみたいだ」

 26歳のオランダ人は、長く人々に記憶され続けるビアンキがそうされるにふさわしいと続けた。

「彼がいつまでも記憶に残るのは素晴らしいことだ。彼の名前は、彼のお父さんが今も主催しているゴーカートレースのような慈善団体にも使われていて、つねに記憶される」

「彼は間違いなく、そうされるのにふさわしいからね」

■「多くのドライバーの模範だった」とガスリー

 ビアンキの友人であるルクレールは、次のように回想した。「僕のマネージャーにフェラーリと話をさせたのはジュールであり、この話を始めたのは彼だった。そしてもちろん彼は個人的な友人だった。僕たちの両親は友人同士で、僕たち家族同士は今でも仲がよく、さまざまなことを一緒にやっていた」

「彼は僕よりいくつか年上だったので、ジュニア時代は大きな助けになってくれた。今でも彼のことをよく思い出すが、もちろん鈴鹿に来るとその存在感がさらに強く感じられる」

「第一に彼は友人であり、素晴らしい影響力を持っていて、とても才能のあるドライバーでもあった」

 関わったカテゴリーは違っていたものの、カート時代にビアンキと出会っていたガスリーは、「ジュールはドライバーとしてはもちろんのこと、人間としてつねに(人々の)記憶に残ると思う」と語った。

「彼はすごく親切で、多くのドライバーの模範だった。特にフランスではそうだった」

「アントワーヌ(・ユベール)、エステバン(・オコン)、その他多くの若いドライバーがいるフランスのチームにいたとき、F1の次のスターとして彼を尊敬していたのを覚えている。なぜなら、彼は最終的にフェラーリにたどり着くだろうと誰もが考えていたと思うからだ」

「だから何が起こったかを思い出すのは、ものすごく悲しいことだ。知ってのとおり、彼は間違いなくF1に足跡を残したと思うし、F1を超えたところにも足跡を残したと思う。そしてそれは間違いなく記憶され続けるだろう」