現在の静岡県浜松市天竜区二俣町にある「二俣城(ふたまたじょう)」は、天竜川と二俣川に挟まれた要害に築かれた城です。武田信玄、勝頼親子と、徳川家康がこの城を巡って激しく攻防した城として知られていますが、どのようなところなのか気になり、バイクで訪ねてみました。

武田との激闘と、家康の悲話が残る「二俣城」

 現在の静岡県浜松市天竜区二俣町にある「二俣城(ふたまたじょう)」は、天竜川と二俣川に挟まれた要害に築かれた城です。武田信玄、勝頼親子と、徳川家康がこの城を巡って激しく攻防した城として知られていますが、どのようなところなのか気になり、バイクで訪ねてみました。

「二俣城跡」の看板を見つけて駐車。ここから徒歩でわずかなところに本丸がある
「二俣城跡」の看板を見つけて駐車。ここから徒歩でわずかなところに本丸がある

「二俣城跡」に辿り着いて気がついたのは、この城のすぐ南に「鳥羽山城(とばやまじょう)」があり、さらに現在市庁舎が建つところに「笹岡城」という城もあることです。3つの城は2kmほどの距離内にあることから、この一帯は「二俣郷」と呼ばれ、つまり「二俣城」と他の城の境界は明確ではなさそうです。そんなことを踏まえて、改めて城跡を歩いてみました。

 1568〜1575年までの7年間、「二俣城」は徳川と武田が激しく攻防した城としても知られています。それはなぜか? 「二俣城」が天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、交通の要所でもあり、遠州平野の要だったから、と解説板には書かれていました。

本丸へ続く階段を上がると目の前に石橋があった。橋を渡った先には「旭ヶ丘神社」が建つ
本丸へ続く階段を上がると目の前に石橋があった。橋を渡った先には「旭ヶ丘神社」が建つ

 家康が武田に大敗した「三方ヶ原の戦い」の前にもいくつかの戦が各地で展開されていました。そして、かつて同盟を結んでいた織田、徳川と武田は決裂。武田信玄の「西上作戦」として知られる進軍では、遠江(現在の静岡県)など家康の所領に侵入していました。

 信玄側にも言い分はあったと思いますが、NHK大河ドラマ『どうする家康』の時代考証人である平田優氏によると、家康が同盟を一方的に破り、今川や北条と和睦を結んだことへの武田側の恨みも募っていたのだと言います。

 そんな信玄は磐田や袋井など、遠江の城を次々と攻略し、西に向かって進軍していきました。それぞれの戦で徳川を「浜松城」に追いやった信玄は1572年10月、ついに「二俣城」の攻略に手をつけます。しかし前述のように天然の要害であるため簡単に落ちませんでした。

2009年から2015年に実施された丘陵全体の測量調査と発掘調査によって、「二俣城」の構造が明確になった
2009年から2015年に実施された丘陵全体の測量調査と発掘調査によって、「二俣城」の構造が明確になった

 そこで城の弱点を調べたところ、城内に井戸がなく、水を天竜川から井楼(せいろう)で汲んでいることを突き止めます。上流から筏を流してこれらの井戸櫓を破壊し、水の手を切ることに成功し、2カ月後ついに武田の手により陥落したのでした。

 徳川は1572年の「三方ヶ原の戦い」で武田軍に大敗しますが、その後、反撃のチャンスが訪れます。1573年、信玄の突然の病死により運命は大きく変わります。1575年の「長篠の戦い(ながしののたたかい)」で徳川軍は勝利を収め、武田軍を一掃すべく「二俣城」の奪還に着手。武田軍は7カ月で兵糧が尽き、城を明け渡したそうです。

 城には「犀ヶ崖(さいががけ)の戦い」での夜襲を成功させた家臣、大久保忠世(おおくぼただよ)が城主として着任したそうです。

本丸の最奥にある天守台の石垣は、豊臣方の勢力下にあった堀尾氏の領有時期(1590〜1600年)に築かれたものと考えられている
本丸の最奥にある天守台の石垣は、豊臣方の勢力下にあった堀尾氏の領有時期(1590〜1600年)に築かれたものと考えられている

「二俣城跡」を巡ると、目の前に広がる石垣の上には天守がなく、青空に雲が流れるだけ。ここでは1579年に、織田信長に武田氏との内通を疑われたため、家康の嫡男、信康の自刃(じじん)事件という悲話も起きました。

「二俣城」は、激闘と悲話を伝説として残している城でした。