伊豆半島の下田と言えば、ペリー来航と開国の地として有名ですが、戦国時代は北条氏と豊臣秀吉率いる大軍との戦の舞台にもなりました。結果、豊臣が数で圧倒しましたが、北条の築城技術は高く、その痕跡はいまでも間近に見ることができるのです。スーパーカブで「下田城跡」を訪れました。

北条氏らしい築城形態、数々の遺構は見応え十分

 スーパーカブで訪れた静岡県下田市にある「下田城跡」は、かつて北条氏の水軍拠点として機能していました。伊豆半島の下田と言えば、1854年のペリー提督率いる黒船艦隊の来航と日本開国の地として有名ですが、それよりも遥か昔、1590年に関白太政大臣となった豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅亡に追い込んだ出来事、いわゆる「小田原攻め」がありました。

スーパーカブで「下田城跡」へ。現在は「下田公園」として整備され、「下田海中水族館」と共通の大きな無料駐車場にバイクを移動してから散策開始
スーパーカブで「下田城跡」へ。現在は「下田公園」として整備され、「下田海中水族館」と共通の大きな無料駐車場にバイクを移動してから散策開始

 豊臣の圧倒的な大軍は「小田原城」を中心とした北条氏の支城を落城、開城させました。「山中城」(静岡県三島市)、「長浜城」(静岡県沼津市)、「韮山城」(静岡県伊豆の国市)、「足柄城」(静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境の足柄峠)、「河村新城」(神奈川県足柄上郡)など、これまでにスーパーカブで訪れた山城も、ことごとく落城となりました。

 なんと言っても豊臣の攻撃に対抗すべく大規模な改修していた「山中城」が、僅か1日で落城(小田原城守備に集中していたため、城跡規模に対して城兵人数が不足だったと言われています)したことが北条氏にとって大打撃となり、敗戦につながったと言われています。

 しかし、例えば「韮山城」は武力で落とされたわけではなく、また「長浜城」や今回訪れた「下田城」も、城郭としての弱さを露呈して負けたわけでなさそうです。

分岐点で近道を選択すると、急な階段が待ち構えている。深い谷があり、いきなり山城らしくなる
分岐点で近道を選択すると、急な階段が待ち構えている。深い谷があり、いきなり山城らしくなる

「下田城」は1588年に北条氏直(ほうじょううじなお)が豊臣秀吉の侵攻に備えるため、水軍拠点としました。

 そして1590年当時の城将は清水康英(しみずやすひで)で、後北条初代の北条早雲(ほうじょうそううん)の頃から家臣として仕えていた清水綱吉(しみずつなよし)の子です。1万人以上とも言われる豊臣の水軍に囲まれた康英は、僅か600人程度で籠城しました。結果、籠城50日の後、降伏開城となりました。

 現在の「下田城」は、1901年(明治34年)以降「下田公園」として開放されています。入り口から登っていくと視界に入るのが、見事な空堀(からぼり)です。現地に設置された解説板によると、約700mもの長大な空堀が巡らされていたようです。

 さらに北条氏の城の特徴でもある畝堀(うねぼり:空堀の中に畝状の障害物を設け、敵兵の動きを妨げる)も僅かに残されています。

かつては700mほどの長大な規模だったという空堀が見もの。堀を分断した「堀切」の遺構も見られる
かつては700mほどの長大な規模だったという空堀が見もの。堀を分断した「堀切」の遺構も見られる

 600人程度しかいない城を1万人以上が囲んだら、あっという間に蹴散らされそうなものですが、そうではなかったということが、この城の守りの強さを物語っているのかもしれません。

 しかしながら、豊臣の水軍には余裕があったのでしょう。四国の覇者、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や、「賤ヶ岳の七本槍(1583年賤ヶ岳の合戦で、秀吉配下で活躍した7人の若い武将)」の1人、脇坂安治(わきさかやすはる)ら猛将が率いていた水軍です。

解説板は無いが、山城らしく人工的な切削の跡らしきものもあり、見応えたっぷり
解説板は無いが、山城らしく人工的な切削の跡らしきものもあり、見応えたっぷり

 彼らの開城の勧告は最終的に受け入れられ、1590年4月下旬には城を明け渡したそうです。

 北条氏が築いた山城はほとんど豊臣軍によって破られていますが、個々の城はそれぞれ防御を工夫しており、またその築城技術は非常に高かったのだろうと思われます。