群馬県前橋市にある赤城フーズ株式会社は元祖カリカリ梅を開発した、明治26年創業の老舗漬物屋です。6代目代表取締役の遠山昌子さん(44歳)は元タカラジェンヌ。宝塚歌劇団を退団し、実家の赤城フーズを継ごうと決意した理由とは?(全2回中の1回)

前橋から東京までレッスン通い「4回目の挑戦で合格」

── 遠山さんは宝塚歌劇団へ2000年に入団し、男役「遥海おおら」として活躍されています。宝塚歌劇団を知ったきっかけを教えてください。

遠山さん:小学校5年生のお正月に、たまたまテレビで宝塚歌劇団の「ベルサイユのばら」が放送されていました。夢中になって、録画したビデオテープがすりきれるまで観ました。大の宝塚ファンになったものの、「自分とは違う世界」と思って、入団したいとまでは考えていませんでした。

── それが、なぜ宝塚音楽学校をめざすようになったのでしょうか?

遠山さん:中学3年生のとき観劇したショーが本当に素敵で、「自分もあの舞台に立ちたい」と思ったんです。家族からは「第一志望の高校に受かったら、宝塚音楽学校を受験していいよ」と条件を出されました。

宝塚音楽学校は中卒から入学できますが、受験時期は毎年3月に行わるので、中卒で受験する子はみんな高校受験が済んでから、音楽学校を受験することになります。私は1月に無事、第一志望の高校に合格することができました。

そこから3月の宝塚音楽学校の受験に向け、約2か月間、地元のバレエ学校に通いました。小学生からずっと合唱をしていて歌の経験はあったものの、バレエは素人。もちろん結果は不合格でした。まずは受験会場の雰囲気を知ることができて良かった、来年頑張ろう!と思いました。

高校に入ってからは宝塚一色で。高校に通いながら自宅のある群馬県前橋市から、東京の宝塚音楽学校専門の受験スクールに通い始めました。

最初は週末だけだったのが、次第に平日も放課後、東京まで行くようになりました。週末には、東京の大学に通う兄の下宿先や、受験スクールのお友達の家、ときにはお稽古場に泊まらせてもらったこともあります。

── 大変な努力ですが、家族の協力もないと難しい毎日だと思います。

遠山さん:家族は誰も、本当に私が受かるとは思っていなかったみたいです。それでも「若いうちに目標に向かって努力するのは貴重な経験だ」と応援してくれていました。宝塚音楽学校を受験できるチャンスは中学3年生から高校3年生の4回しかありません。

高校生活を宝塚受験にかけていましたが、高校2年終了時まで一度も一次試験にすら受かりませんでした。高校3年生になると受験スクールの他の同級生は、宝塚受験をあきらめたり、大学と併願する人ばかりで…。

とくに一度も一次に受かったことない人が4回目まで受けるのはまれでした。だから、高校3年生になったときに私も悩みました。

でもここで諦めたら一生後悔する、私は不器用だからどちらかに絞らなければムリだ、そう思って宝塚音楽学校1本に絞りました。ラストチャンスで一次試験を突破することができました。

「遥海おおら」として夢が叶った宝塚歌劇団

── 念願の一次試験合格だったんですね。

遠山さん:その後、二次試験と最終面接があったのですが、私はとにかくその空間にいられることが嬉しくて。最終面接で試験官から「あなたは何回受験しましたか?そのうち二次試験にきたのは何回目ですか?」と聞かれたんです。

だから、満面の笑みで「4回目です!二次試験ははじめてです!」と嬉しさいっぱいに答えたら、試験官の先生方がみんな大笑いしていました。

一次試験に受かったことがある人は、可能性を感じるから受験しつづけますが、私のように一度も一次に受かったことがない人が4回も受け続けることはめずらしいと思います。

それに、群馬から東京にレッスンに毎日通っていたことも伝えられたので、「この子はよくわからないけど、根性ありそうだし面白いかも?」と感じてもらえて合格できたのかなと。

宝塚音楽学校受験スクールに通っていたころの遠山さん(右端)

── 宝塚音楽学校を卒業し、2000年に宝塚歌劇団の86期生として入団してからはどんな毎日でしたか?

遠山さん:男役の「遥海おおら」として入団しました。宝塚歌劇団に入団時は、宝塚音楽学校の卒業試験の成績でその後の役の付き方が大きく変わってきます。

私は演劇の試験で張りきりすぎ、空回りしてしまいました。苦手なダンスの比重が大きかったこともあり、結果は43人中32番と、後ろから数えたほうが早い成績でした。

そのため、入団当初は同期が出られる場面にも自分は出られないことも…。悔しくて、必死にレッスンに取り組みました。そのかいあって、徐々に順位も上がり3年目の試験では8位になって、少しずつ役ももらえるようになってきました。

あこがれていた歌のコンサートでも歌わせてもらえるなど、充実していました。このままずっと大好きな宝塚歌劇団で頑張ろうと思っていました。

── 宝塚はどんな世界でしたか?

遠山さん:プロとしての厳しさと情熱、そして愛情にあふれた世界でした。お客様に感動していただける一糸乱れぬ舞台をつくり上げていくために、みんなプロとしての自覚がありました。

当時はいま以上に規律がしっかりしていましたし、上下関係はたしかに厳しかったです。でも、それ以上に本当に愛情にあふれていました。

踊りがおかしかったり、化粧が変だったり、音が取れていなかったり…私ができていないことがあると、上級生が時間をさいて親身になって一生懸命教えてくださって。

そのおかげで一歩一歩、舞台人として成長していくことができました。オフでは終演後にご飯に連れていってもらったり、休演日にも遊びに連れていってもらったり…。愛情を感じているからこそ、必要な厳しさもスッと受け入れられました。

音楽学校から多くの困難を一緒に乗り越えてきた同期とは、他ではつくれないようなかけがえのない強い絆ができましたし、下級生もこんな私ともとても仲良くしてくれて、「同じ釜の飯」の言葉のように、宝塚でもらったご縁はいまでもずっとつながっています。

私がいた当時の話にはなりますが、あんなにも愛情にあふれた世界はなかなかないと感じています。だからこそ、今の宝塚も愛情を大切にした世界であってほしいと強く願っています。

入団5年目の葛藤「跡継ぎがいない家業が気になり」

── そんな大好きな宝塚、順調にキャリアを築き始めていた5年目に退団したのは、なぜでしょうか?

遠山さん:私は4人きょうだいです。ふたりの兄のどちらかが、実家が経営する赤城フーズ株式会社を継ぐ予定でした。ところが、兄たちは別の道を歩み、継がないことに…。

そのときは父が社長をしていましたが、先代の祖父が「俺が育てた会社をどうするんだ」と、跡継ぎがいないことを心配していました。祖父はカリカリ梅を開発し、会社を大きくした人です。遠く離れた私の耳にも入るくらい口グセのように言っていました。

赤城フーズで人気のカリカリ梅3点セット

そんな祖父の具合が悪いと、電話で母から聞きました。もし祖父が会社のことを心配したまま天国に行ってしまったら、私はどう思うだろう…と考えたんです。

子どものころは会社の工場が家の敷地内にあったから、社員さんにもかわいがってもらっていました。会社がなくなったら、大好きな赤城フーズのカリカリ梅もなくなってしまう。

想像するだけで身体にぽっかり穴が空くようなさみしさを感じました。小さいころからの思い出とともに、会社にすごく愛着があったんです。

一方で宝塚歌劇団の男役は、10年経験して1人前と言われています。そのとき私は入団5年目。まさにこれからの時期で、宝塚でまだまだ頑張るつもりでした。

それでも、実家に帰って赤城フーズを継ぐのと宝塚歌劇団に所属しつづけるのと、どちらが後悔しないか?と自問自答したら、「家業を継ごう」と答えが出てきました。

── 家族や会社への思いが強かったのですね。

遠山さん:そうなんです。家族が応援してくれたからこそ、4回も受験に挑戦できました。入団後もずっと支えてくれていました。経営のことは何もわからないけれど、やろうと思えた私が帰ることで、少しでも役に立てるのではないかと、これから一生懸命勉強しようと思いました。

祖父は喜んでくれた記憶があるのですが、両親がどんな反応だったかはあまり覚えていないんです。きょうだいたちからは、「宝塚歌劇団でこれからというタイミングなのに、本当にいいの?」という心配の言葉をもらいました。

2005年4月3日に宝塚歌劇団を退団し、同月21日には赤城フーズに入社しました。とにかく飛び込んでみよう!という決断でしたが、宝塚の受験から退団までを通して「努力を続けたら、いつかきっと結果が出る」と実体験できたことが、私を支えてくれました。当時の経験はすべて、私にとってかけがえのない財産です。

PROFILE 遠山昌子さん

群馬県前橋市生まれ。2000年、宝塚歌劇団に男役「遥海おおら」として入団。2005年、宝塚歌劇団を退団し、赤城フーズ株式会社に入社。2008年に結婚し、2児の母に。2018年2月、6代目として代表取締役社長に就任。

取材・文/齋田多恵 写真提供/遠山昌子