思わずニヤリとしてしまう大人向けの医事漫談。独特の語り口と仕草に表情、まさに唯一無二の芸風で一世を風靡したケーシー高峰さん(1934〜2019)。俳優としても活躍した多彩な芸能人生の裏側には何があったのか。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回はケーシーさんの人生に迫ります。

早朝5時、知床半島に近いホテルで

 朝5時、温泉ホテルT。一番風呂に入ったつもりが、すでに先に入浴している人がいた。全身泡まみれになり、ゴシゴシ、ゴシゴシ……。入念に時間をかけて体の隅々まで洗っている。まるで泡の中に人間が入っているようで、奇妙な風景だった。

 2008年8月、北海道東部の知床半島に近い中標津での出来事である。

「こんなにまできれいに体を洗う人なんているのだろうか?」

 興味を覚えた私は、どんな人なのか顔を見たくなり、湯船から上がった後、脱衣場でしばらく待っていた。幸い、夏の北海道はさわやかで、湯上がりの体を冷やすにはちょうどいい。

 浴場から出て来た男性は、テレビの演芸番組などでおなじみのケーシー高峰さんだった。

 実は前日、羽田からの便に乗ったとき、ケーシーさんに似た人が最前方の席に座っていたのを私は覚えていた。おそらく町が主催する演芸大会か何かのイベントに招待され、このホテルに宿泊したのだろう。

 私は脱衣場でケーシーさんとしばらく雑談をした。

「どうして、そんなに入念に体を洗っていたのですか?」と私。

「旅先でたったひとりになれるのが、早朝のお風呂なんです。ここなら誰にも邪魔されない。とにかくきれいに洗えば、身も心も軽くなるんですよ」と笑顔でケーシーさん。

 有名人ともなると、夜は夜でお付き合いがあり、お風呂にゆっくり入るという訳にはいかないのだろう。特に地方都市ならなおさらだ。「ここなら邪魔されない」という言葉に、売れっ子芸人のもう一つの顔を見たような気がした。

 私は、自分が朝日新聞の社会部記者であり、今日は取材で中標津を訪れている旨を伝えた。そして「いつか浅草で再会しましょう」。そう言って、先に風呂場から出た。

「グラッチェ」「セニョール」「セニョリータ」……。次々飛び出す意味不明で怪しげなあいさつ。黒板やホワイトボードを使い、大人向けのネタをまじえたギリギリの医学漫談で笑いをとった漫談家。「歳を取ると 家の通路を掃除するようになる それをローカ現象と呼ぶ」なんて、おもわずクスッと笑ってしまう。「お笑いの天才」とも言われたケーシーさんと私との縁は、そんな出会いから始まった。

一度は医学部へ進むが

「ケーシーの後だけは高座に上がれねえ。あまりにウケすぎて落語をやれる空間ではなくなってしまう」

 落語家の立川談志さん(1936〜2011)が絶賛していたのを思い出すが、どこでどうすれば客の笑いがとれるのかをきちんと計算していた。そして、何よりも努力の人でもあった(この点については後に詳しく書く)。

 1934(昭和9)年、豪雪地帯で知られる山形県最上町出身。母方が江戸時代から続く医者の家系だった。ケーシーさんは5人きょうだいの末っ子である。上の3人は医師や歯科医師になり、自身も日本大学の医学部へ進んだ。

 だが、音楽や芸能の世界への憧れが抑えられなくなり、1年もたたずして同大学の芸術学部に転部する。ジャズクラブなどで司会を務め、やがて大学の先輩と漫才コンビを組んだ。医者になることを期待していた両親はもちろん激怒。ケーシーさんはしばらくの間、勘当の身となった。

 脳外科医を描いた米国ドラマ「ベン・ケーシー」と憧れの女優・高峰秀子さん(1924〜2010)から芸名をとり、1968年、漫談家・ケーシー高峰としてデビューする。親思いだったのだろう。「親が見たら喜ぶんじゃないか」と思い、白衣姿で舞台に上がったというから泣けてしまう。翌年、日本テレビの人気番組「11PM」に対抗しようと、東京12チャンネル(現・テレビ東京)が始めた「おいろけ寄席」の司会に起用された。日大の先輩の推薦だったそうである。

 50歳を過ぎてから福島県いわき市に移り住んだ。自宅には大学ノートにメモ書きしたネタ帳がどっさり山積み。新聞も全国紙からスポーツ紙までくまなく目を通した。努力家・ケーシー高峰の素顔である。

 渋い脇役もこなす性格俳優として「夢千代日記」(NHK・1981年)などのテレビドラマや映画でも活躍。人気ドラマ「木更津キャッツアイ」(TBS・2002年)では男色家の高額納税者を演じ、「ヒキガエルのような怪優」と若者の間でも話題になった。

 2011年3月11日の東日本大震災。自宅は高台にあったので津波の被災は免れたが、すぐに避難所へ駆けつけた。「こんなときこそ笑いが大切だ」。ストーブを囲みながらおなじみの漫談で和ませた。

「グラッツェ、アミーゴ、やってるか、母ちゃん」

 ここで少しさかのぼるが、2004年秋、ケーシーさんは舌の左側面に白いポチッとしたできものを見つけた。だが、忙しくて病院に行く時間がなかったという。

 翌春、できものは直径2センチぐらいに広がっていた。大きな病院で診察してもらうと、口腔の粘膜の一部が白変する病気だった。1割近くががんに移行するという説明だった。

 山形県で産婦人科医をしていた母親をはじめケーシーさんの親類は医者が多い。外科医の甥に相談すると、「切っておけば大丈夫。医者を紹介する」と言ってくれた。だが、舌がんに移行してしまった。

 05年、手術を受けた。術後20日間は傷口が開いてしまうため舌を動かすことができず、まったくしゃべれなかった。

「普段、言っているようなことも言えない。芸人だから、しゃべれないってことがすごいストレスだった」とケーシーさんは言っていた。だが、話せなくてもケーシーさんの周りは笑いが絶えなかったそうだ。そこにいるだけで周囲が和んだのである。

 舌を動かしてもいいと許可が出てからは、見舞い客や病院のスタッフを相手に冗談を飛ばしていたが、縫合してあるため舌がなかなか柔らかくならない。やはり芸人なのだろう。舌を動かす許可が出てからは、見舞客や病院のスタッフ相手に冗談を飛ばしていたが、完全に治ったわけではない。舌がひっかかったり、もつれたりして1年くらいは大変だったそうだ。

 その後も闘病生活は続く。2018年春、肺を患い入院。自宅療養していたが、再入院した。

「どんなことでも懸命に努力し、チャレンジする人でした」

 同世代の芸人として共に東京のお笑いを支えてきた春日三球さん(1933〜2023)はそう話していた。白衣に黒縁メガネ。首からは聴診器がぶらさがっており、晩年は舞台に上がるだけで笑いが起きた。

 唯一無二の芸風と言っていいかもしれない。ケーシーさんの存命中、私の後輩が「ケーシーさんの漫談のスタイルはどこから来ているんでしょう?」とインタビューしたことがある。その回答がすこぶる面白い。

 医学に関わる話は母親や親族から。子どものころから診察室で遊んでいたし、母親も積極的に医学の話をしてくれたので自然に覚えてしまったそうである。しゃべり方は「(ジャズクラブでの)音楽のMC(司会)をやってきた流れですよ」とケーシーさんは答えている。そして、続けてこう言っている。

「『よろしく』を『しくよろ』なんて逆さ言葉はミュージシャンの符丁。それからスペイン語は、アイ・ジョージさんや坂本スミ子 さんとラテンのバンドで回っていたころの名残ですね。『よお、セニョール』『アミーゴ、今夜どこ行く』なんてやっていたから。でも一般の方はびっくりしたでしょうね、『グラッツェ、アミーゴ、やってるか、母ちゃん』なんて。始めたころ、永六輔 さんが『演芸の世界にとんでもないのが出てきた』って評論を書いてくださったのを見て、とてもうれしかったのを覚えています」(朝日新聞:2011年1月27日夕刊「人生の贈りもの」)

 2019年4月8日、肺気腫のため85歳で亡くなった。家族に見守られながら安らかな旅立ちだった。その後も私は北海道の中標津を訪れるたび、温泉ホテルTに泊まっているが、早朝の一番風呂に入るとケーシーさんとの出会いを思い出す。「知性あふれる下ネタ」が懐かしい。

 次回は、19年前、急性骨髄性白血病のため惜しまれつつ38歳で旅立った本田美奈子. さん(1967〜2005)。アイドル歌手としてデビューしつつも、圧倒的な歌唱力で人気を博した歌姫の素顔に迫ります。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部