聴く人の魂を揺さぶるような見事な歌唱力。透明感がありながらパワフルな歌声は、多くのファンを魅了しました。本田美奈子.さん(1967〜2005)。38歳での別れは、ファンだけでなく多くの人の驚きと悲しみを深くしました。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今週は本田さんの人生に迫ります。

「元気です。順調に回復しています」

 ひたむきに努力を積み重ねてきた人だった。物事に突進するエネルギーはすさまじかった。「天使になった歌姫」。没後、そんな言葉で称賛されたが、素顔の彼女は傷つきながらも絶えず立ち上がり、自分と向き合う「戦士」だった。

 2005年11月、急性骨髄性白血病のため38歳で亡くなった歌手・俳優の本田美奈子さん(04年11月に改名後は本田美奈子.=本名・工藤美奈子)。

 あどけない顔立ちと、驚くほど華奢な体。にもかかわらず、3オクターブを行き来したという透明感のあるパワフルな歌声で多くの人々を魅了した。まるで自らの使命を全うする覚悟を決めたかのような迫力を私は感じた。

「元気です。順調に回復しています」

 病室から送った笑顔をたたえたメッセージが、亡くなる前にテレビ番組で流れたこともあったが、「血液細胞のがん」と言われる白血病の何が生と死を分けたのだろう。

 当時の報道を振り返ると、前年の04年暮れぐらいから体のだるさを感じ、年が明け、「念のため」とに病院で診察を受けた結果、急性骨髄性白血病とわかった。

「どうして私が……」。のちに自分の姿をカメラで映すほど気丈に振る舞った本田さんだったが、医師から病気を告げられた当初は納得できなかったに違いない。あまりのショックで、その場で泣き崩れてしまったそうである。デビュー20年目。「さあ、これからだ。頑張ろう」と思っていた矢先に発覚した衝撃の事実である。

 即入院。この病気は、がん化した白血球が増殖し、抵抗力が極度に弱まり、ほかの病気に感染しやすくなる。そこで、厳重に管理された無菌室での入院となった。

 入院当時は落ち込んでいたようだが、少しずつ元気を取り戻す。「退院したら、あれもしよう、これもしよう」と考えを切り替えることで、自分への励ましにもなったのだろう。ファンから送られてくる応援メッセージ、手紙やFAXは、1日に70〜80通。本人はそのすべてに目を通したという。

 それにしても、せっかく験担ぎをして、姓名の画数を一つ増やすべく末尾に「.」を付けて改名したのに、38歳の若さで旅立ってしまうとは、何のための改名だったのか。疑問を感じてしまう。回復の兆しも一時あったというが、容体が急変したという。

 死の前日には、友人でもある歌手の岩崎宏美さん(65)、同じく俳優の南野陽子さん(56)が病院に駆けつけた。「ありがとう」と本田さん。目に涙をいっぱいたたえ、まばたきを繰り返したそうである。彼女自身も周囲も、絶対に舞台に復帰すると思っていたが、奇跡は起きなかった。

「悔しいです。絶対に生きると思っていた」

 告別式の会場で、南野さんが涙をこらえながら集まった報道陣に対して言葉少なに答えた。悲しいに決まっているのに、「どんな気持ちですか?」。無神経なまでに尋ねるマスコミには、正直、腹が立つが……。

人にやさしく

 そういえば、あるとき、こんなこともあった。埼玉県朝霞市の本田さんの出身小学校で開かれた「しのぶ会」で、マネジャーが披露した話。

「『また明日ね』と見送られ、外に出たが、携帯電話を忘れているのに気づいて取りに戻ると、背中を見せてわんわん泣いていた。人にやさしく、人を思うことの大切さ。彼女と出会えたことは、とても大切な思い出です」(朝日新聞埼玉県版2009年3月7日)

 つらい話ばかりが続くが、私は「病院」という場所は、病気を治療するだけの場所ではないと思っている。そこは人間と人間が交流する場。人としての温かさ、ぬくもりに接する場ではないか。本田さんのエピソードをこうしてつづりながら、改めてそう感じている。

 さて、ここで本田さんの経歴について簡単に振り返ろう。1967年7月、東京都生まれ。85年に歌手デビュー。「Temptation(誘惑)」で日本レコード大賞新人賞を受賞し、「1986年のマリリン」もヒットし、アイドル歌手として不動の地位を築いた。ミニスカートにヘソ出しルックで踊っていたこともあった。ひとりでステージに立っても存在感があった。

 時代は60〜70年代の高度成長期を経て、日本経済がバブルへとひた走った80年代。アイドル人気も熱かった。特に「花の82年組」と呼ばれた歌手は、世代を超えて高い知名度を誇り、「豊作」だった。中森明菜(58)、小泉今日子(58)、石川秀美(57)、早見優(57)、シブがき隊、堀ちえみ(56)、三田寛子(58)……。私もレコードを買いあさったことを覚えている。アイドルの誰もが、昭和特有のエネルギッシュなパワーを兼ね備えていた。本田さんはやや遅れてきた世代だが、やがて転機を迎える。

 それが英国発のミュージカル「ミス・サイゴン」日本版(92〜93年公演)のオーディション。ヒロインのキムには、約1万2000人が応募した。

 実は審査の早い段階から、英国スタッフは「日本版の適任者」として本田さんに注目していたという。「ひたむきで献身的、愛情にあふれたキムそのものだ」という声もあった。

 地声が豊かな本田さん。課題は裏声を使った高音域の表現だったが、注意した個所は次には必ず直してきた。「どれだけ練習したことか。できそうでできない偉大なこと」と関係者は振り返る。課題を克服したことで、「アベ・マリア」などを収めたクラシックアルバムの制作へと新しい道も開けた。冒頭に書いたように、やはり努力の人である。

「ミス・サイゴン」の中の1曲に「命をあげよう」がある。あの歌のように、自己犠牲の愛の歌が得意だった。舞台でセットに右足を挟まれ、指4本を骨折しながらこの曲を歌い上げたこともあったという。

故郷を大切にしていた

 さて、亡くなった翌月の12月16日、夜9時からフジテレビが「天使になった歌姫・本田美奈子.」というドキュメンタリー番組を放送した。見た人も多かったと思うが、病状が回復に向かっていた時期、フジは完全復帰までのドキュメンタリーを制作しようと取材を始めたという。

 彼女が残した約5時間にわたるテープと、家族が撮影した写真から、これまでの歩みと闘病を振り返った番組だった。本田さんは同じ病院に入院していた知人を元気づけようと、毎日のようにメッセージをテープに吹き込み、最後に歌を贈った。アカペラで歌いあげる「アメイジング・グレイス」。力強くて心のこもった歌声だ。本当に歌うことが大好きだったんだなあ。そのことがひしひしと伝わってくる秀作の番組でもあった。

 東京生まれの本田さんだが、2歳から埼玉県朝霞市で育っただけに、「ふるさとは埼玉」と言っていいだろう。歌手デビューし、ミュージカルなどで幅広く活躍するようになっても、地元を離れることはなかった。

 朝霞警察署の一日署長を引き受けるなど、地域とのつながりを大切にした。2001年4月の朝日新聞のインタビュー(埼玉県版)でも「土いじりをきっかけにした地域の人たちとのふれあいがたまんない」と屈託なく語っていた。

 東武東上線朝霞駅の南口には、本田さんのモニュメントがある。「ふるさと朝霞を愛した功績をたたえて」と地元商工会が市に提案。特殊加工で本田さんの顔写真が埋め込まれ、ボタンを操作すると澄んだ本田さんの歌声が流れる仕組みだ。2007年に完成した。

 除幕式には、友人代表としてタレントの早見優さんらが参加。母親の工藤さんは「感無量です。駅に降り立つ皆さんに元気を与えてほしい」と語った。

 27歳で夭逝した俳優の夏目雅子さん(1957〜1985)のように、スターはいつまでもいつまでも語り継がれる。まさにスターとは、真昼の明るさの中では見えなくても、陽が落ちて暗くなると輝き始める星のような存在なのだろう。寂しくなったとき、夜空を見上げてみよう。本田さんはいつも私たちのそばにいる。

 次回は「燃える闘魂」のキャッチフレーズで人気を呼び、2022年に79歳で亡くなったアントニオ猪木(1943〜2022)。ボクシングの世界王者モハメド・アリ(1942〜2016)との異種格闘技戦など時代を先取りしたアイデアと抜群の行動力。ショー的要素が強いプロレスとは決別し、「ストロングスタイルのプロレス」をめざした猪木。病魔に冒されても、闘魂の魂は燃え尽きなかった。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部