第1回【「不適切にもほどがある!」で再注目 伝説のディスコ「MAHARAJA」が令和の時代も攻め続ける深い理由】からのつづき

 バブル期に一世を風靡したディスコ・MAHARAJA(以下、マハラジャ)が、令和の時代も人々を“踊らせて”いる。「バブル世代の同窓会」と言うなかれ。前編では、MAHARAJA ROPPONGI(東京都港区、以下ROPPONGI)の広報を担当する吉田麻里乃さんに、マハラジャ文化を土台とした新しい「ハッピーな空間」を語っていただいた。では、その文化はどのようにして築かれたのか。第2回ではマハラジャの全盛期にサウンドプロデューサーを務めていたDJ TSUYOSHIさんに話を聞いた。

VIPルームをガラス張りにした理由

 ROPPONGIには現在もガラス張りのVIPルームが2部屋ある。ダンスの場であるホールが下界ならこちらは天界。TSUYOSHIさんによると、このわかりやすい差別化は全盛期も同じだった。

「VIPルームをガラス張りにした理由はうらやましく見えるから。客層はきれいに分かれてたね。バブル期は見栄の張り合いもあるから、客単価の高いお客様にVIPルームでがっつりお金を使っていただく。ホールには若いお客様もかなりいて、学生ノリの部分もあった」

 TSUYOSHIさんは10代後半からDJを志し、1986年12月に「成田社長」こと実業家の成田勝氏がオープンさせたKing & Queenの1号店(東京都港区)でチーフDJに就任した。成田氏は関西でマハラジャを展開していた企業から任命され、東京1号店のMAHARAJA TOKYO(1984〜97年)などを運営する別企業の社長を務めていた。

「最初のKing & Queenは外国人モデルの子たちがたくさん来るような店を目指したけど、あまりうまくいかなかったんです。でも数カ月経ったころ、30代をターゲットにするからレコードも全部入れ替えろと。すると見事に当たって、店の売り上げが月1億円くらいになったんですよね」

MAHARAJAは「劇団」だった

 この成功を足掛かりに、TSUYOSHIさんはマハラジャを含む関東8店舗のサウンドプロデューサーとなった。ただし、仕事内容は音楽以外のことも多く含まれていたという。

「タイムカードの整理から面接など、DJに関するすべてです。マハラジャでは僕の面接を受けないとDJになれない。全国のチェーン店が集まる会議で、マハラジャのDJマニュアルを発表したこともあります。あとは地方で新店がオープンする時、精鋭部隊として東京から行ってノウハウを教える。それを10年くらいずっとやり続けました」

 当時はバブル期の序盤。マハラジャは全国でフランチャイズ展開を始めており、独自の社員教育やDJスタイルがほぼ確立されていた。

「踊る、声出す、お客様が何か言ってたら聞いてあげる。制服を着て化粧もするし、特別なイベントがあれば着ぐるみを着て動物になり、女装もする(笑)。だから僕はまず『曲をかけてるだけじゃマハラジャのDJになれないよ』と言っていました」

 ディスコが成功する条件として、TSUYOSHIさんはDJとスタッフのハイレベルな仕事が起こす“化学反応”を挙げる。全盛期のマハラジャも然りだ。さらに、今もブランドとして残る理由は「お客様のことを第一に考えた戦略」ゆえだと考えている。

「業界人や文化人の場所だったディスコが、70年代には不良のたまり場になっていった。それを変えたのがマハラジャだったと思うんです。一般人が入っても怖くない、夢と錯覚の世界を作った。そんな世界をプレゼンするわけですから、お客様に対するサービスも徹底します。そのために各自が決められた役割を演じる、いわば“劇団”なんですよね。成田社長だって“バブルオーナー”を演じてましたよ」

当時はパラパラが嫌いだった

 徹底したサービスはDJも同じで、店内が最も盛り上がる選曲の追求は当然。さらにTSUYOSHIさんはレコードプレーヤー以外の機材も導入し、サイレン音や爆発音、ドラム音などをリアルタイムで挿入するマハラジャ独自のスタイルを作り上げた。

 ただし、機材を導入した真の目的は「パラパラ」を踊らずに済むことだった。ユーロビートの曲に合わせて主に手で踊るパラパラは当時生まれたばかり。盛り上がりの際にはその場にいる全員が同じ振り付けで踊っていた。

「パラパラが嫌いだったんですよね(笑)。でも、今は日本特有の文化だと思ってます。海外はビートで踊りますが、日本人はメロディで踊る。そういう国民性だから、パラパラは日本舞踊や盆踊りから続くものなんですよ。僕の外国人の友人も当時、300人くらいが同じ踊りで1つになってる様子を見て、『日本で一番楽しいのはマハラジャだ』って言ってましたね」

 ユーロビートのリズムに乗って、バブル期のマハラジャは超人気ディスコとして君臨した。TSUYOSHIさんもCDのリリースやテレビ出演など、活躍の場を広げていく。

「バブル期って先はバラ色しかないんですよ。お笑いブームと重なってたから、日本中が笑って浮かれすぎてて、この先もどうにかなるって思うような世界でしたね。VIPのお客様に選曲を録音したカセットテープを3本渡したら、チップが10万円(笑)」

お前ら、ジョン・ロビンソンになれ

 だが、バラ色の時代は長く続かなかった。バブル終焉が始まった1991年、マハラジャに大きな衝撃が走る。

「ジュリアナ東京のオープンです。やられましたね。いきなりお客様が入らなくなった。どんな店ができても崩れなかったマハラジャの城が初めて崩れたんですよ」

 同年2月にオープンしたジュリアナ東京は、ボディコン、お立ち台、ジュリ扇で社会現象を起こした。「ジュリアナ〜ト〜キョオ〜!」の叫び声で有名なメインDJのジョン・ロビンソンは、英国の北アイルランド出身。駆け出し時代から日本で活動し、TSUYOSHIさんにとっては年齢的にもキャリア的にも“後輩”だ。

「お客様が入らなくなった時、成田社長の下にいた常務がDJを集めて言ったんですよ。『お前ら、ジョン・ロビンソンになれ』(笑)。なれるわけないですよね。日本人だし、英語も喋れないし。俺はむしろ、ジョンが歌ってた『TOKYO GO!』(93年)をかけるなと指令を出したんです。ケツ追いかけるのやめようぜと。ただ、東京以外の店舗ではかけちゃうんですけど(笑)」

 現在のジョンはフィリピン在住だが、音楽活動の拠点は日本だ。激しく踊って声を出し、場を盛り上げるパワフルなDJプレイはジュリアナ時代と変わらない。ROPPONGIにもゲスト出演し、令和の今、マハラジャとジュリアナの融合を実現させている。

「ジョンはパワーがあるんだよね。みんなが彼を認めてる理由は、踊って歌いながらやって、お客様のために汗かいてるから。DJがほんとに好きなんだよ。DJ全員があそこまでやらなくていいけど(笑)、マハラジャの他のDJにも彼ぐらいの気持ちでやってもらいたかったんですよね」

 ***

 マハラジャとともにバブル期の日本を駆け抜けたTSUYOSHIさんは、次の舞台として米国を選んだ。DJとサーフィンを追求する米国生活は7年に及んだが、長年のハードな生活に身体が悲鳴を上げてしまう。現在の健康とバイタリティを取り戻すために尽力したのは、20年前に結婚した愛する女性だった。

 第3回【マハラジャで活躍後、ロスに移住…DJ TSUYOSHIが「過去の写真を全部捨てた」理由とは】につづく

デイリー新潮編集部