54歳での旅立ちはあまりにも若く、そして悲しいものでした。川島なお美さん(1960〜2015)は大学時代に深夜ラジオのDJとして脚光を浴び、多くの男性ファンを虜にしました。女優に転じてからは「一生をかけてやる仕事」として文字通り全身全霊で取り組みました。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は川島さんの知られざる女優魂に迫ります。

最後まで女優魂を失わず

 川島なお美さんは筆者より1歳上の1960(昭和35)年生まれである。ほぼ同世代と言っていい。だから、とても気になる人だった。

 お互いに昭和の高度経済成長期に生まれ育ち、大学時代はディスコブーム。やがてバブルへと日本中が舞い上がってしまうが、心の奥底ではどこか満たされないものを川島さんも感じていたに違いない。女優という仕事を続けるにあたり、与えられた役柄をどう表現すればいいのか、いつも貪欲に純粋に悩んでいたのではないか。

 一度お会いしてあれこれお話しをうかがいたかったが、なぜか華やかに彩られた川島さんが遠い世界にいるような気がして(それは誤解だったのだが)、その思いは果たすことはできなかった。

 なので、今回の「メメント・モリな人たち」は、川島さんへのラブレターのような気持ちで書いている。ちょっと恥ずかしいけど、読んでください。

 まずは「余命宣告」について書いておきたい。余命宣告というのは本当に残酷なものである。生きていこうという純粋な希望を打ち砕き、患者を絶望の淵へと追いやる。

 川島さんは人間ドックで異変が見つかり、2014年1月、肝内胆管がんの腹腔鏡手術を受けた。再発が発覚したのはこの年の7月。その際、「余命1年」と宣告されたが、最後まで女優魂を失わなかった。

 そのことを物語るエピソードを紹介しよう。

 まずは最後のミュージカル「パルレ〜洗濯〜」から。この時は腹水が5リットルも溜まる中、舞台に立ち続けたという。降板が決まった時、川島さんは「もっとできたのに……」と泣き続けた。「自分の中に甘えが出ちゃった」と自身を責めることもあった。その姿に胸が張り裂けそうになった夫でパティシエの鎧塚俊彦さん(58)は、「もう十分だよ」となぐさめたという。

 女優魂を物語るエピソードは、葬儀の様子からもうかがえた。

 旅立ったのは15年9月24日。享年54だった。10月1日と2日、青山葬儀所(東京・港区)で営まれた通夜と告別式。ワインレッドの薔薇で大胆に流線が彩られ白い花で埋め尽くされた華やかな祭壇は、まさに川島さんらしい気高さを感じさせた。

 秋元康さん(65)や石田純一さん(70)ら多くの著名人の顔があった。通夜と告別式には約3800人が参列したという。

 涙を誘ったのは、家族ぐるみで親交が深く川島さんにとっては「憧れの存在」だった女優・倍賞千恵子さん(82)の弔辞だ。倍賞さんは北海道の別荘に川島さんを招待したことを振り返り、「蝶々のようにヒラリヒラリと走り回っていたあなた。本当に楽しそうで美しかった」と声を詰まらせた。

「だって私、女優だもの」

 最後に電話した時は、川島さんの病状を何も知らなかったという倍賞さん。電話口で苦しそうに咳をしている川島さんに「なお美ちゃん、そんなに頑張らなくていいんだよ」と言ったら、こう答えたという。

「千恵さん、だって私、女優だもの」

「じゃあ、頑張らないように頑張って」

「うん、分かった。頑張らないようにして頑張る。女優だから」

 と、答えたそうである。「女優だもの」「女優だから」という言葉に、川島さんの信念を感じる。

 葬儀では事務所の先輩でもある片岡鶴太郎さん(69)の弔辞も読み上げられた。川島さんが亡くなる20分前に見舞った時の様子。そのまま再現しよう。

「よく頑張ったねえ、最後まで女優だったねえ、美しいねえ、と話しかけたら、薄い意識の中で瞳を濡らした。髪も若々しかった。握った手の柔らかさ。ネイルもかわいかった。そのかわいらしさがいじらしかった。それさえも奪っていくのか。(中略)また来るからね、と病院を後にした。それから20分。(夫である)鎧塚さんからの電話。腰が崩れ落ちた」

「それさえも奪っていくのか」という言葉が痛切に響く。死は残酷であり、情け容赦ない。

 作家の林真理子さん(70)も弔辞に立ち、あふれる涙を抑えつつ遺影に語りかけた。

「いま日本中があなたの死を悼み、悲しんでいます。あなたはいつも時代を体現して見せてくれました。あなたの最愛の人、鎧塚さんを決して孤独にはしません。私たち仲間が、きっと友情で支えます。なお美さん、ありがとう。そして、さようなら。あなたは本当に美しくて素晴らしい人でした」

 死の3カ月前、友人で漫画家のさかもと未明さん(58)が撮影した写真が遺影となったが、吸い込まれそうな目で魅惑的なポーズを作ってくれたという。だが、その後、急激にやせ細ってしまった。がんが生きるエネルギーも奪ってしまったのだろう。心配した未明さんの連絡に対し、川島さんはこう答えたそうである。

「すごく疲れる。体が休みたがって悲鳴をあげている。会えるとしても来年ね」

 悲報が届いたのは、この1週間後だった。

 さて、ここで川島さんの経歴について簡単に振り返ってみたい。

 愛知県名古屋市出身。青山学院大学在学中に歌手としてデビューし、ラジオ番組でDJも務めた。「女子大生ブーム」の先駆け的な存在であり、レギュラーを務めたバラエティ番組「お笑いマンガ道場」(日本テレビ系・中京テレビ制作)で人気を集めた。この番組では出演者がイラストや似顔絵を描くのが常だったが、川島さんの場合は描くのが速く線に迷いがなかったそうである。「独特の感性に驚いた」と当時のプロデューサーは振り返っている。

 だが、芸能生活を始めた頃はお金がなくて苦労した。月給から家賃を差し引くと、小遣いとして残ったのは約3万5000円。服を買うのもやっとの思いだった。

 普段の生活では、いつもジーンズをはいていた。夕食はハンバーガー1個というのも珍しくなかった。一人旅が好きで、30歳の誕生日はトルコのイスタンブールで迎えたという。日本にいると何かと拘束され、周囲の目も気にせざるをえなかったが、海外だと一人きりの時間を存分に楽しめたそうである。

「女優は一生をかけてやる仕事」

 1997年には渡辺淳一さん(1933〜2014)原作のドラマ「失楽園」(日テレ系・読売テレビ制作)で、不倫の末に心中する女性を見事に演じた。与えられた役柄にやみくもに挑んでいるのではなく、相当の努力をした上で覚悟と自負に裏打ちされた「信念」というものがあったに違いない。「失楽園」を演出した映画監督の花堂純次さん(68)は、あの激しいラブシーンの場面をこう振り返った。

「『私は撮影に入ると必ず本気で恋をするの』と言っていましたね。睡眠時間を削るくらいハードな撮影でしたが、『ワインを飲んで自分をもたせている』とほほえんでいました」(週刊朝日2015年10月9日号)

 美しいだけの女優ではなかった。美しさの中に「精神の糸」のようなものがピンと張り詰めていたと言ってもいいだろう。

「女優は一生をかけてやる仕事。命ある限り表現していきたい」

 取材に対し、真剣な眼差しで応じていたが、女優としても目標は自分自身だったのだろう。穏やかな風景が続く一本道ではなく、曲がりくねった道のような芸能生活。山あり、また山あり。山を越えたら次の山が待ち構えており、その山に登って、さらなる景色を見る。「別の景色が見えたらチャンスありと思ってきた」と川島さんは語っていた。

 さて、ここからは私の個人的な見解だが、川島さんにはどんな色が似合っただろう。

 生命の色である赤やバラ色はたしかに似合う。大地を彩る黄や緑もシックな感じがして似合う。だが私は、青色こそ川島さんにとって最も似合う色だと唱えたい。

 青は大空を彩るように気高い。そして時には、人間を激しく拒む。画家のパブロ・ピカソ(1881〜1973)も孤独で不安な青春期を青色で表現したが、暗く沈んだ色調の青こそ女優・川島なお美にふさわしい。

 晴れ渡った春の青空を見上げつつ、川島さんに思いをはせる。

 次回は「大巨人」と呼ばれたプロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアント(1946〜1993)。人間山脈の異名を持ったアンドレ。大巨人ゆえの悩み、苦しみを探る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部