真田広之が主演、プロデュースを務めたドラマ「SHOGUN 将軍」(全10話、ディズニープラスで配信中)が最終話を迎えた。2月27日の配信開始直後から世界中で話題になったこの「ハリウッド版時代劇」は、何がすごいのか。【ライター・渥美志保】

船員を「釜茹で」

「SHOGUN 将軍」は、徳川家康をモデルとした吉井虎永が天下を制するまでを、漂着したイギリス船の航海士ジョン・ブラックソーン、通称「按針」の視線を通じて描いた作品である。虎永を演じる真田広之を始めとする俳優たちの圧倒的な演技はもちろんだが、彼らの演技を十二分に引き出した脚本の素晴らしさも決して見逃せない。

 登場人物たちはその多くが本当の気持ちを明かさず、「運命」「宿命」「使命」に縛られながら生きている。そんな彼らが自分の「生」のすべてを賭けたある一瞬を、ドラマは鮮烈に描き出しているのだ。その一瞬とは、彼らが避けられない「死」と対峙する瞬間である。

 ドラマのそんなテーマは、第1話で浅野忠信演じる樫木藪重によって語られる。

 藪重は虎永配下の田舎大名で、彼が守る伊豆・網代の入江に銃と大砲を満載した外国船が漂着する。そのうちの1人がこの作品のもう1人の主人公・按針で、藪重はこれを自分の切り札に虎永を裏切り、最も力を持つ大老・石堂に取り入ろうとするのだが、それはさておく。

 藪重は、按針とは別の船員をひとり選び、その死の瞬間を見るために「釜茹で」にする。

「死から逃れられないと分かった瞬間、人間はそのこととどう対峙するのか」

 藪重はそこに興味がある。船員の死は「全ての者と同じように、やつの最期はただやってきて、過ぎ去っていった」のみで、藪重はひどくがっかりさせられる。だがドラマはそこから「人は何のために、どのように死の瞬間を迎えるのか?」というテーマとともに、毎回何人もの登場人物の死を見つめながら進んでゆく。

海外の観客を惹きつける要素

 作品では、様々な人物の死に様が鮮烈に描かれる。中には「なんとマヌケな……」というものもあるのだが、ドラマはそれを笑わない。

 ある人物の死に様を目撃した藪重の甥・央海の言葉――「あの方が向こう見ずにあったにせよ、たったひとつのものに賭けておられた。ご主君に。虎永様に」からは、このドラマの全体像が浮かび上がってくる。それは「大義のための死」もしくは「死を無駄にしないための大義」だろう。

 それは尊いものではあるのだろうが、現代に生きる筆者には(そしておそらく海外の観客には)恐ろしくもある。というのも虎永は、死に急ぐ者たち、死を望む者たちを諌め、生きる意味を与えてやるようなことは決してしない。一見すると、ただ彼らが選んだ死のタイミングで、それを有効活用すべく画策する冷徹な戦略家なのだ。

 その最たる存在が、按針の通訳としてずっと付き添ってきた鞠子である。

死を望む鞠子

 名家に生まれながら「謀反人・明智家の娘」という汚名を背負って生きる鞠子は、信仰に救いを見出したキリスト教徒だ。父親は娘を自身の企てに巻き込まないよう、虎永の家臣・戸田広松の息子に嫁がせた(つまり格差婚)のだが、意に沿わぬ結婚は鞠子をさらなる不幸に陥れた。

 彼女は夫を決して愛そうとはせず、ただ救済としての死のみを望む。夫はそんな鞠子を支配しようと日常的に暴力をふるい、だが決して死ぬことは許さない。彼女にとっては人生そのものが戦いであり、死によって、そんな人生から永遠の解放されることを願っているのだ。そんな彼女に虎永は、いい頃合いで「父から受け継いだ使命=太平の世を実現すること」をささやくのだ。

 かくして自分の死に意味を与えられた彼女は、敵に対して一歩も引かずに秘めてきた怒りを爆発させ、ドラマに登場するどんな男たちよりも壮絶な最期を迎える。

 鞠子のあまりに壮絶な死に様は、間近で見ていた藪重をある意味で崩壊させてしまう。

 ドラマ前半で、藪重は死のピンチに陥り「所詮死ぬ運命なら」と自ら切腹しようとするのだが、すんでのところで救出される。切腹を選んだことに対し、按針が示した敬意に藪重は得意げな表情で答える。だが鞠子の生々しい死を経験した藪重は、もはや切腹に誇りや美徳を見出すことができなくなってしまう。

 見えてくるのは、あまたの死の上で繰り返される権力闘争の不毛さと、そこに関わっていた自分の醜さでしかない。その中心にいるのが、誰に対しても決して本心を見せず、家臣たちの死を利用してまで大業をなそうとする主君、虎永なのである。

虎永の複雑なキャラクター

 だが虎永は本当に、ただの冷酷非道な政治家なのか。

 ドラマ前半の虎永が繰り返す「戦争を知らない人間が、戦争をしたがる」「私は自から戦争を仕掛けたことはない」という言葉に嘘はないし、虎永は一貫して天下太平の世を目指している。虎永が家臣たちに「役割を果たす」よう仕向けたのは、あくまで戦争をせずに大業をなすためだ。

「虎永の家臣であると同時にキリスト教徒」という数人の人物が「人間は一面では測れない」と語る場面が何度かある。それは虎永も同じで「戦争を決してしたくない虎永」も「大業のために家臣に死を求める虎永」も、同じ虎永の中に存在するのである。

 こうしたキャラクターの複雑さを演じること、ある種のヒーローとして成立させ、観客に敬意と威厳を持って受け入れてもらうことは、それはそれは恐ろしいほど大変なことだと思う。

 虎永を演じる真田広之の演技は素晴らしいものだ。ライバルである大老・石堂と対峙し恭順を示しながらも一歩も引かず、部下の勇気を称えながら切腹を申し渡し、裏で石堂と繋がる藪重を弄ぶようにいたぶり、世継ぎ・八重千代にはその優しさで慕われ、按針と無邪気に海に飛び込んでみせ、家臣を切腹に追い込みながら同時にその死に涙する。

 こうして書いてみると1人の人物の姿とは思えないのだが、そのすべてが1人の人物の中にあることを真田が説得力を持って表現している。往年のファンには驚きだが、このドラマのなかで真田が刀を振るう場面は、たったの1シーンしかない。それでも彼の切れ味がドラマ全体に横溢している。

現代女性と通ずる

 それに対して、ドラマの愉快な息抜きになってくれたのは、チンケな二枚舌男・藪重である。

 伊豆で虎永に作り笑顔を浮かべたかと思えば、大阪で石堂と虎永を陥れる策を密談し、再び伊豆に戻れば虎永にとってつけたような忠誠を誓う藪重は、武士であれば「風上にも置けない男」である。だが観客を笑わさずには置かない口の悪さ、卑劣になりきれない人間くささ、実は腹の底まで虎永に見透かされているマヌケぶりで、どうしても憎めない。

 浅野忠信独特のユーモアは、藪重がまるでこの世界に生きる唯一の現代人のように思わせる。最終回に見せる藪重の変貌もまた、そのまま観客の思いと重なるに違いない。そして最終回を見た後に初回を見直せば、それまでの彼の行動は天に唾するものだったのだと気づくに違いない。

 鞠子を演じたアンナ・サワイの氷のような冷たさと、その奥に秘めた激情も印象的だ。按針の無作法な物言いを「超訳」でクールに訳す優秀さ、夫の「いつものDV」に一歩も引かない強さ、自分を守るために心に「八重垣」を巡らせる孤独、「わきまえた自分」を演じるその奥で募らせる怒り……。ほとんど現代の働く女性と変わらないキャラクターと言える。

俳優の実力を堪能できる作品

 鞠子と姉妹同然に育った太閤の側室、二階堂ふみ演じる「落葉の方」との対比も鮮烈だ。

 若き日の落葉の方は、「贅沢三昧に暮らせる身、力及ばぬことは目を閉じて見なければ良いのに」と鞠子にのたまったのだが、「宿命」に縛られて仇同士となった2人は、結局のところ同じような「流されるままに生きるしかない人生」を生きている。歳月を超えて再会した2人の連帯がドラマの終盤を大きく動かしていくのは、現代を生きる女性の心にも大きく響くに違いない。

 その他の俳優陣も素晴らしい。西岡德馬の迫力、平岳大の粘着ぶり、阿部進之介の憎々しさ、穂志もえかのしぶとさ……文字数がいくらあっても足りない。

 韓国ドラマが国際的な躍進を見せるここ数年、「韓国の俳優の演技の巧さに比べて日本の俳優は……」と言われることも多かったが、「SHOGUN  将軍」は「舞台さえ与えられれば、実力のある俳優たちは日本にもいくらでもいる」というのを見せつけてくれた作品だった。世界で大暴れする日本の時代劇を、世界で活躍する本物の日本の俳優たちを、もっともっと見たい。

渥美志保(あつみ・しほ)
TVドラマ脚本家を経てライターへ。女性誌、男性誌、週刊誌、カルチャー誌など一般誌、企業広報誌などで、映画を中心にカルチャー全般のインタビュー、ライティングを手がける。Yahoo!オーサー、mi-mollet、ELLEデジタル、Gingerなど連載多数。釜山映画祭を20年にわたり現地取材するなど韓国映画、韓国ドラマなどについての寄稿、インタビュー取材なども多数。著書『大人もハマる韓国ドラマ 推しの50本』(大月書店)が発売中。

デイリー新潮編集部