「退屈しない、悲惨な人生」

 4月22日に発表された「第28回手塚治虫文化賞・マンガ大賞」で最終候補作品に残った作品が、今じわじわと売れている。昨年2月に刊行された、齋藤なずなさん(78)の『ぼっち死の館』(小学館)だ。

 この春に増刷したばかりの同作は、高齢の独居老人が多く住む団地が舞台だ。タイトルにもある通り、住民の孤独死をめぐる様々な人間模様を描いている――と聞くと、漫画とはいえ、重く、暗い内容なのではと思いがちだが、そうではない。

 ストーリーの中心にいるのは、井戸端会議を楽しむ団地に住む女性たち。いずれも明るくユーモアにあふれており、気になる住民にピッタリなあだ名をつける。そのセンスに思わずクスッと笑ってしまう場面もあるが、女性の中には齋藤さんと思しき、漫画を描いている住民もいる。懐かしさと温かさを感じる絵柄のせいだろうか、それまでの人生で、人には言えない“事情”を抱えた登場人物たちに思わず共感したり、感情移入したり…。

 どのエピソードも、いわゆるハッピーエンドで終わるというわけではない。それでも「老い」や「終活」、「孤独死」を描く話の中に、夫婦の在り方や家族との関係など、日常生活で忘れがちなものへの気付きも、ちりばめ られているようにも感じる。

 介護、みとり、終活といったテーマを中心に、小学館が2022年にスタートさせた新レーベル「ビッグ コミックスフロントライン」の1冊でもある同作品だが、齋藤さんは40歳で漫画家デビュー。作品の舞台と同じく、高齢化が進んでいる東京都西部にあるニュータウンの団地に長く住み、作品を送り出している。アシスタントをつけず、すべての作業を一人でこなしているが、実は、漫画家になったのは「生きるため」で、なりたいと考えたことはなかったという。

 それでも「今は描きたいことがようやく出てきた」という齋藤さん。これまでの人生を、

「退屈しない、悲惨な人生でした」

 と明るい笑顔で語る。

英会話学校からイラストレーターへ

「作中にユーモアの要素を取り入れようとか、特に意識していることはないです。だいたい世の中や、自分の身の回りで起こることはどれも面白いと思うし、何かあっても深刻に考えない。そんな私の性格が作品に反映されているのではないでしょうか」

 東京生まれの齋藤さんは、両親の仕事の都合で幼少から高校卒業まで、静岡県富士宮市で育った。しかし、地元での暮らしは退屈だった。高校卒業時、「不幸せでもいいから、退屈しない人生を送りたい」と東京の短大に進み、卒業。

「英会話学校の求人広告に応募して、採用されました。そこで教材に使うイラストを描いていた人のお手伝いをしたんです。色塗りとか簡単な作業でした。絵に関しては、子どもの頃から嫌いではなく、それなりに描けた方だったので」

 イラスト担当の社員は漫画家志望だったが、「もう漫画家にはなれない」と夢を諦め、退職して故郷へ。代わりに齋藤さんがすべてを任されることになった。その後、出版社へ転職した男性の紹介で、単行本のカットを描くようになり、イラストレーターとしての仕事を本格化させた。

「占い師の浅野八郎さん(1931〜2022)の手相術の本を手がけた縁で、仕事を紹介してもらいました。週に1回、色々な所へ取材に出かけて、それをイラストでルポする連載を8年間、サンケイスポーツでやったこともあります。でも、いい時は長くは続かなくて。自分で作品を持ち込むことはせず、依頼をこなしていただけなので、だんだん先細りになって生活にも影響が出始めたんです。それが40歳になる前のこと。困った末に考えたのが、漫画家なら稼げるかな? 私にも描けるんじゃないかって。今にして思えば、不遜な考えなんですけど」

『月刊漫画ガロ』はよく読んでいたそうが、描き方や時間の経過など、漫画の表現方法は他人の作品を読んで頭に入れ、昔の自分の記憶を掘り起こし「この辺がいいな」というところでストーリーを考案した。そして86年、ビッグコミック新人賞を受賞し、デビューとなる。

 高校卒業時に抱いた思い通り、「退屈しない」さらに「不幸せでもない」人生ですよね? そう聞くと、

「いいえ、そうではないんです。でも、だから人生って面白いんじゃないかと思うのです」

遅咲きデビューも悪くない

 では、齋藤さんの人生で最も大きな苦労とは?

「8年前に亡くなった、10歳上のダメ夫です。とにかくダメな男でした。何がダメって、一番は働かないこと。元は週刊誌の記者だったんですけど、小説家になるんだと言って辞めてしまって。その後は仕事はしないで、ずっと私にタカりっ放し。万年筆はこれだ、原稿用紙はここじゃなきゃダメだと、とにかく形から入るんです。それで小説を書くわけでもなし、上から目線でプライドばかり高くて」

 別れようと思ったことはなかったのか?

「だって…私と別れたら、あの人は生きていけないだろうし…うまく別れることができなかったんですよ(笑)。その夫が、脳出血で倒れたんです。会話と右半身が不自由になって11年、介護しました。これが本当に大変でした」

 この頃、齋藤さんは京都精華大学マンガ学部で講師を務めており、毎週、東京と京都を往復する日々でもあった。それでもできるだけの事はしてあげようと、夫の介護をこなした。

「ある朝、夫は亡くなっていました。とにかくおでこの広い人だったんです。思わず私、そのおでこに手を置いて、夫に『面白かったね』と言ったんです。まぁ、とんでもない人で、本当に苦労しましたが、よーく考えてみると色々と面白かったんです。真面目な普通の人が夫だったら私、飽きちゃったかもしれない。この人が夫でよかったなと、亡くなった時にそう思えたんです」

「退屈しない、悲惨な人生」は面白かったという齋藤さん。一連の経験は、漫画の創作にも生かされているという。

「目の前で見聞きしたことや、自分で経験したことがストーリーのヒントになることは多いです。あと、本で読んだいい文章からイメージが湧くことも多いですね。1行からでもアイデアが浮かぶことがあります。寝る前に本を読んでいる時、いい一行にぶつかると、これだ! と思うんです」

 哲学者の柄谷行人(82)や丸山圭三郎(1933〜93)の著作や、『月山』で第70回芥川賞を受賞した森敦(1912〜89)の『意味の変容』などに、ヒントを得ているという。京都精華大時代の教え子も何人かプロデビューしている。だが、自身の仕事が忙しく、誰が何を描いているのか把握していないとか。多作ではないものの、担当編集者と連絡を密にとりながら創作に励む齋藤さんは、自宅で漫画教室も開いている。

「教室には若い子も来るのですが、今、流行りの言葉とか教えてもらえるんです。この前、教えてもらったのが『星くず男子』。星のようにキラキラときれいなんだけど、クズみたいな男、という意味です。若い人と接するのはいい刺激になりますね。私は漫画家としては遅咲きでしたが、年を重ねて色々と経験してきたことがあるから、描きたいことが湧いてくる。特に今はそう感じます。遅咲きデビューも決して悪くはないですよ」

 どこまでも前向きで、ポジティブ思考の齋藤さん。「孤独死」という重いテーマを、新しい感覚で描いた『ぼっち死の館』はおススメだ。

デイリー新潮編集部