ノンフィクション作家の川内有緒さんは東日本大震災時に「自分は消費者としての生き方しかしらない」と、自分の無力さを自覚したそうです。その後40代で出産し、1児の母になります。

 実は、川内さんは自他ともに認める不器用さん。ですが、「自ら、何かを作り出すという選択肢を手に入れる」ことを目標に、まずは娘のための机を手作り、そして最終的にはなんと山梨に小屋を建ててしまいます。

 著者と、夫のイオ君と、一人娘・ナナちゃんの三人にとって、人生で一度きりの“不確かな未来を生きるための旅”を記した、読者の心と価値観を揺さぶるドキュメント。その一部を『自由の丘に、小屋をつくる』から紹介します。

娘に「原風景」を作ってあげたい

 ナナを保育園に送ったあと、わたしとイオ君はよく近所のドトールでコーヒーを飲んだ。共働きの我々にとっては、貴重なコミュニケーションタイムでもある。

 その日わたしは、イオ君に提案したいことがあった。

「ねえねえ、自分たちで小屋を作るってどう思う?」

「え、小屋? 今度は田舎に引っ越したくなったの?」

 彼はカフェラテを飲みながら首をかしげた。

 わたしは以前から「そのうち家族でアラスカに行こう」など、思いつきで物事を提案してきた。それに対して彼はわりときちんと話を聞いてくれた。

「そうじゃないの」と答えた。

 ――自分たちで小屋を建てたい。

 理由は、分かりやすいものと、分かりにくいものの両方があったので、まずは分かりやすいものから。

「だって、ナナには田舎がないんだよ。自然の風景も田舎の生活も知らないで育つなんて、ちょっとかわいそうじゃない?」

「そりゃ、そうだ、俺も小さい頃は北海道のおばあちゃんちに行って楽しかったな」

「でしょう。わたしも福井のおばあちゃんちに毎年泳ぎに行ってた。いとこたちと遊ぶのも楽しかった。でもナナにはそういう場所がいまのところないでしょう」

 わたしの母は渋谷区の繁華街に、イオ君の両親は千葉の住宅街に住んでいる。そして、わたしたち家族が住んでいるのは目黒駅近くにある築40年の賃貸マンションである。メインの遊び場は、謎の白い泡が浮かんだ川に沿った緑道か、小さな児童公園だった。

 1歳になったナナは早くも言葉を操るようになり、「あっち、しゃんぽ」、「ママ、ちちご(イチゴ)」、「あんよ、かゆい」などと自分の意思を伝えてくる。行きたい方向に一歩ずつ歩みを進め、食べたいものを手掴みで食べた。彼女はすでに赤ちゃんではなく、ひとりの人として周囲にある全てを吸収しようとしていた。このまま都会のど真ん中だけしか知らずに育っていって良いのだろうか?

「あれ、でもさあ、キャンピングカーで地方を巡るんじゃなかったっけ?」

 イオ君は首をかしげた。そういや、そうだった。

「あー、それね。やめた」

 妊娠中は、「キャンピングカーを買って日本中をめぐりながらノマドライフしたい」などと言っていた。

 しかし、24時間フルサポートが必要な小さな生き物と一緒に生活をしてみると、狭いキャンピングカーで移動し続けるなんて無理がある。ああ、あの頃のわたしは子育てについてなにひとつわかってなかった。キャンピングカー、やめやめ!

 それよりも、思ったのだ。旅という断片的な風景ではなく、いつまでもぶれることのない原風景──体の中心にどんと据えられた柱のようなもの──が、まずは必要なんじゃないだろうか。ふと思い出すだけで濃い自然の香りとそよ風を感じて、気分が良くなるような心の風景。わたしにとってそれは、父の実家があった福井の海辺の集落であった。もう行くことがほとんどなくても、あの海の風景を思うだけで、いまも穏やかな気持ちになる。

 別荘を買うのではダメなのかと聞かれたら、それはダメだった。あくまでも「自分たちで作る」という部分もまた重要なポイントだった。

「あのね、机がきっかけなんだよ」とわたしは言った。

 こちらが、わかりにくい方の理由である。

大量のモノ消費社会で生きてきた

 話は少し前に遡る。

 この頃のナナは、高さ10センチくらいのミニサイズの椅子に座ってご飯を食べたり、絵っぽいものを描いたりするようになっていた。そろそろ娘用の机を買わなければと思った。即座に「子ども用 机」とネット検索を始めると、画面にはたくさんの机がずらっと並んだ。

 木のぬくもり、いいかも。

 高さ調整はできた方がいいよね。

 引き出しはなくてもいいか。

 何度目かのクリックのとき、ふっとひとつの考えがよぎった。

 そうだ、自分で作るってどうだろう? 板と足を組み合わせるだけだから、そんなに難しくないのかも。しかし、次の瞬間にはこう考えた。え、マジで作る? いや、むり、むり。簡単そうとはいえ、具体的な作り方は想像すらつかないし。

 わたしは自分でも信じられないくらい手先が不器用で、洗濯物を畳むことすら苦手だった。中学校の家庭科は堂々たる「1」で、エプロンでもパジャマでもわたしが作ると、シャキッとしないものができあがった。手を抜いていたならまだしも、一生懸命やっても「1」なんだから絶望的である。こんな人間なので、これまで何か欲しいときには「買う」以外の選択肢はなかった。

 再びパソコンの画面に目を移した。画面には夥しい数の机の画像が並んでいた。まあ長く使うわけでもないし、なんでもいいか。

 いや、本当になんでもいいのだろうか?

 実は、もう何年も前から、自分の暮らしに対して漠然とした不安を覚えていた。たくさんの物に囲まれ、それらを買うために懸命に働く、そんな暮らしである。

 1972年生まれのわたしが子どもから大人になったのは、大量消費が日本全国で礼賛された80年代から90年代で、その仕上げのように20代の6年間をアメリカという大量消費の総本山で過ごした。アメリカでは週末になると、フライドポテト専用の揚げ機やチェス盤に早変わりするテーブルなど、人生で5回くらいしか使わないものを買い求める人々でショッピングモールは混雑していた。懸命に働き、何かを買い求め、不必要な物をガレージに溜め込む。それが幸せへの近道だとばかりに。

東日本大震災で感じた「暮らしの不安」

 そんな価値観に強烈な待ったをかけたのが、東日本大震災だった。

 あのとき、自分の無力さをはっきりと自覚した。わたしは何も生み出すことができず、消費者としての生き方しかしらない。服も縫えないし、トマトの育て方も知らないし、テントすら張れない。大学院まで出て海外で仕事をしてきたわりに、何か大切な能力を身につけないままに生きてきてしまったのではないかと思うと心底怖くなった。

 ナナは、どんな生き方をするのだろう。目の前でニコニコしながら指をしゃぶる小さな子。まだ大きくなった姿なんてまったく想像がつかないけれど、ああ、なにはともあれ、幸せになってほしい、もう絶対的になってほしい。そう強く願えば願うほど、最初は小さな点にすぎなかった「暮らしの不安」というシミは、大きく、黒く広がっていった。

 そんな事を考えながらも、わたしはまた別の机の画像をクリックした。

 まったく子育てって、本当にいろいろなものが必要でうんざりするなあ。やっぱりメルカリで買った方がいいのかも……。別の机の画像をクリック。

 テレビでは、毎日のように不穏なニュースが流れている。集団的自衛権の行使容認、景気後退、テロ、相次ぐ地震、漂流するプラスチックゴミ、温暖化、そして収束を見せない福島第一原発事故の放射能問題。

 わたしたちは、どうやって彼女を守り、なにを彼女に授けてあげられるだろう? どうすれば彼女はこの時代を生き抜いて、幸せになれるのだろう。机が映った画面をスクロールする手はいつの間にか止まっていた。

新たな選択肢を得るため、セルフビルドを決意

 やっぱり机を作ろう。

 奇妙な論理の飛躍なのはわかっている。しかし、わたしがいま望むのは、「ものを買う」以外の選択肢を持つことだ。わたしが娘にしてあげられるのは、そういう種類のことのような気がした。別に「丁寧な暮らしを」という話でもなかった。ただ、わたしたちは自分で何かを生み出すことができると信じたかった。

 いいじゃん、不器用上等だ。やってみようじゃないか。作り方がわからなければ、習えばいい。

 わたしは机を作る。

 そう想像するだけで、ずっと気になっている人に会いに行くようなときめきがあった。机の後は椅子やベンチも作ってみたい。妄想はどんどん飛躍していき、その数分後には、そうだ、いつかは小屋を作ろうと思いついた。

 もし、この不器用で面倒くさがりのわたしが「小さな家」という暮らしの基盤を手作りすることができたなら、どこかに置き忘れてきた生活の知恵と技術を学ぶことができるかもしれない。完成の暁には、娘はやればなんでもできるという精神になってくれるかもしれない。それは、この困難な時代に、生きる力として彼女に寄り添ってくれる気がした。

 すべては「かもしれない」に過ぎないが、その考えは突如としてわたしをとらえて離さなくなった。

「……というわけで、セルフビルド、つまりは自分たちで小屋が作りたいの」と長い話を締めくくった。わたしのカフェラテのカップは空っぽになっていた。

 なるほどー、とイオ君は頷いて即座に答えた。

「それ、いいね! 楽しそうだ。やろうよ!」

※本記事は、『自由の丘に、小屋をつくる』の一部を再編集して作成したものです。

デイリー新潮編集部