昭和49(1974)年3月12日、フィリピンから1人の日本人男性が帰国した。29年ものあいだ同国のルバング島に潜伏していた「最後の日本兵」こと小野田寛郎氏である。20年の終戦後も、小野田氏を含む4人の日本兵は米軍の投降呼びかけに応じず、ジャングルに隠れ住んでいた。最後の1人となった小野田氏の生存が確認されたのは47年。日本政府の捜索は空振りに終わり、冒険家の青年が接触に成功したことで帰国につながった。

「週刊新潮」が平成28(2016)年に情報公開制度で外務省から入手した機密書類には、小野田氏の救出活動に関する紆余曲折が克明に記されていた。専門家に依頼した小野田氏の性格分析をもとに、呼びかけの際に適した内容や掲げる旗まで検討していたのだ。小野田氏帰国から今年でちょうど50年、帰国にまつわる真実を振り返る。

(前後編記事の前編・「週刊新潮」2016年8月23日号別冊「『輝ける20世紀』探訪」掲載「情報公開請求でA級資料680枚を発掘! 『小野田寛郎』元少尉の救出作戦報告書とマルコス大統領に100万ドル」をもとに再構成しました。文中の年齢、役職、年代表記等は執筆当時のものです。文中敬称略)

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2人の旧日本兵が現地警察と銃撃戦

 戦後、日本国内で最も広範囲に及んだ流言飛語の一つが、昭和48(1973)年1月の「トイレットペーパ騒動」を引き起こした。石油ショックの影響で「紙がなくなる」という噂が流れ、全国の店頭からきれいさっぱりトイレットペーパが消えてしまったことは今も記憶に残る。だが、「人の噂も七十五日」。騒動がようやく収束の兆しを見せ始めたのは49年2月〜3月のことだった。

 そんな折、フィリピンの在マニラ日本大使館から外務省に「ルバング島で小野田寛郎元少尉(52)=当時=らしき人物を発見した」との衝撃的なニュースが届いた。

 まず、それまでの経緯を簡単に振り返っておく。

 47年10月19日、ルバング島で2人の旧日本兵がフィリピンの警察と遭遇、銃撃戦となり、1人が射殺され、1人は足にケガを負ったまま逃走した。亡くなったのは小塚金七元一等兵(51)=当時=で、逃げたのが小野田さんだった。

 政府は、その直後から48年4月中旬まで、3次にわたって捜索隊を派遣した。だが、発見することはできず終い。結局、49年2月20日、一連の捜索に触発され、単身でフィリピンに渡った冒険家の鈴木紀夫さん(24)=当時=が、小野田さんとの接触に成功したのだ。

発見者から話を聞く作業に丸3日間

 本誌は、情報公開制度を使い、外務省に「小野田さん救出に関する資料」を請求した。すると、在マニラ大使館から外務省宛てに打たれた公電を中心に約680枚の文書を入手できた。

 外務省が、小野田さんに関する最初の会見を行ったのは49年2月26日夜。もっとも、卜部敏男駐比大使が外務省に第一報を打ったのは、3日前の23日20時30分である。公電にはこう記録されている。

〈23日比空軍司令部よりルバング島オノダに関し次の通り内報越した。(中略)数週間前より空軍許可の下に単身ルバングに渡つていたスズキ某なるせい年より比空軍に20日オノダと称する男にそうぐう(中略)、21日朝まで話しをしたが「オノダ」は自分は終戦を信じていないが直属上官たるタニグチ少さ及び他の1名の命令があれば帰国してもよいと述べた旨連絡があった〉

 さらにこんな記述も。

〈スズキのさつえいしたオノダの写真は比空軍で現ぞう中で25日には出来上る予定であり、スズキも同日比空軍に出頭することとなつている。(中略)比空軍としては上記写真をも検討の上ランクード司令官より本使に正式連絡するはずであるが、本件が今少しはつきりするまで外部にもれざるよう願いたい〉
〈スズキのしゆくはくホテル名不明のため当方より連絡の方法もなく……〉

 つまり、第一報だけでは、小野田さん本人かどうかの確証がなかった。写真を見て、鈴木さんから話を聞く作業に丸3日間費やしたことが読み取れるのだ。

心理学専門家が参加した研究会議

 さて、最も興味深いのは、手書きで〈小野田少尉救出活動に関する心理学的諸課題並に関連事項についての調査研究〉とタイトルが付けられた報告書である。表紙には〈厚生省庶務課より入手〉とメモされているが、元厚生省職員が言う。

「小塚さんが射殺され、47年10月23日から捜索隊を送り込んだものの、うまくいきませんでした。政府は小野田さんが自発的にルバング島から出る決意をするよう誘導することに、その後の捜索活動方針を転換。そこで、心理学者ら専門家から意見を聴取し、“救出作戦報告書”をまとめたのです」

 10ページに及ぶ報告書は48年1月13日付で作成された。研究会議は3回行われ、日本心理学会会長の相良守次氏(基礎心理学)、警視庁刑事部主幹の町田欣一氏(犯罪心理学)ら、計7人の専門家が参加。同年1月末から4月13日まで派遣された第3次搜索隊(80名)は、この報告書を基にして捜索を行ったという。

身長まで考慮しての性格分析

 まず、報告書は〈救出活動に関する基礎的問題〉とし、〈小野田元少尉のパーソナリテー(人柄)について〉記している。専門家は、小野田さんの両親や姉、海南中学の同級生らに聴き取り調査を行った。

〈一次的性格としては、はつきりした粘着性気質と推定される。(註・粘着性気質とは、ていねい、きちようめん、意志が強く、粘り強い性格である)〉
〈二次的性格としては、きわめて優秀な兄弟、姉妹の間に於いて、普通程度の知能と生来的に身長が低いことから、幼・少年期に強い劣等感がみられ、それの補償的機制として粘り強さ、並に欲求不満に対する耐性が形成されているものと推定される〉

 因みに、小野田さんの身長は160センチ程で、

〈三次的性格としての価値的志向の面では海南中学剣道部を通じての皇国思想が顕著に認められる〉

 と分析している。救出活動については以下の記述がある。

〈1期、2期にわけて、段階的に実施すべきものと考える〉
〈第1期は3週間(21日間)、接触班のみ接近させ後方から説得班が呼びかける説得作戦を実施する〉
〈第2期は3週間以上可能な期間、捜索救出作戦を実施する〉

 組織については、接触班、説得班(通信管理を含む)、搜索班、情報処理班、渉外広報班、救護補給班のような班編成とし、団長が指揮を執ることが望ましい、と。

第1段階は呼びかけと説得

 まず、救出活動の第1期を仮に“呼び掛け、説得の期間”としよう。その上で報告書は、〈小野田元少尉説得に対する課題〉の〈訴求態度について〉、こう指摘する。

〈極度の警戒心と恐怖感そして不信感を持つている小野田元少尉に対して「戦争と平和」「国際状勢」「大統領は約束している」などの情報を与えても訴求効果は全く期待出来ない〉

 とし、ルバング島における救出活動状況の説明など、身近な情報を与えることが必要だとする。呼び掛けを行うにあたっては、

〈小野田元少尉の反応を期待するためには、反応しやすい場面を設定しておく必要がある〉

 とした。具体的には、海南中学の友人グループ、中野学校出身の戦友やルバング島における戦友グループ、肉親グループから3名1組の班を編成。ビゴ川上流、チリク川上流、ブロール川上流、ゴンチン海岸に各々1〜3拠点を設定し、小野田さんの接近を待つという。それまでの捜索と違う点もあった。

〈小野田元少尉に対する訴求標識(訴求シンボル)として、従来までは日の丸の旗が利用されていたが、今後の訴求シンボルには赤十字の旗も併用することが効果的と考える。赤十字の旗を新しく利用して訴求シンボルにすることは、小野田元少尉に対して安全、救出のイメージを与えることに役立つものと考える〉
〈説得班員が、小野田元少尉に呼びかけるとき、呼びかけの主体名称は「日本赤十字」と呼称することが望ましい〉

第2段階は強制救出

 それでも応じない場合、第2期の捜索救出作戦、いわゆる〈強制救出〉に切り替えるという。その際、報告書は、

〈小野田元少尉の性格は粘着性気質で且つ強い耐性をもつていると考えられるので、綿密な捜索を実施して本人に強い心理的圧迫が加わつても、自決の可能性は少ないものと思われる。しかし、万一の場合も考えられるので本人が強い危機意識をもつことを防止するため接触拠点は安全な場所ないしは退避場所として、捜索中も継続設置しておくことが極めて必要であろう〉

 と指摘する。また、強制救出では望ましい人員の条件にも言及している。

〈搜索班員は登山技術と体力のある者が選出されるべきである。(中略)捜索は、小野田元少尉が居住している可能性が高いビゴ川上流の半径約2kmの地域を中心にして綿密、徹底的に実施することが必要であろう〉

 これらの地域について、

〈全面積が125平方キロメートルである。よつて捜索班員100名が5m間隔で毎日1000mずつ歩いて捜索した場合約2週間で捜索可能と思われる。したがって降雨による中止その他のことを考慮しても3週間あれば上記地城の綿密な捜索は可能で小野田元少尉の生活痕跡は最小限発見可能であろう〉

 と見ていたのだ。

捜索を遠巻きに見ていた

 後に、小野田さんは、著書『わが回想のルバング島」の中で、この大規模捜素について、

〈この大捜索に参加してくださった方々は実に大勢いる。私が直接確認できたのは、まず兄弟四人中、次兄、姉、弟の三人だ。(中略)小中学の同級生のグループでは、海上からの捜索のうち一艇は確認している〉

 と、捜索隊を遠巻きに見ていたことを告白している。彼らの呼び掛けや説得に応じなかった理由については、

〈その原因の第一は、与えられた命令に準拠した私の未熟な戦略的判断によって、私があくまで敗戦を信じなかったためであることは論を待たない〉(同)

 小野田さんは、報告書で〈はつきりした粘着性気質〉と書かれたが、我々の想像を遥かに上回る強靭な精神力の持ち主だったのだ。

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 綿密な検討が行われていた小野田氏の救出活動。残念ながら捜索は空振りに終わったが、結果的には49年の帰国が実現した。巷では連日のトップニュースとなり、様々な意見や感想が飛び交う。一方で日本政府は、フィリピン政府への見舞金について話をまとめていた。後編では見舞金の支払いが検討され始めた時期やその意図、金額の算定、フィリピン側が見せた意外な反応など、驚きの後日談をお届けする。

後編【元日本兵・小野田寛郎さんの帰国後、政府がフィリピンに送った“3億円の見舞金” 算出根拠の内幕が明らかに】へつづく

デイリー新潮編集部