241人(2月16日、石川県発表)が命を落とした能登半島地震。大間圭介さん(42)は珠洲市仁江町にある妻・はる香さんの実家である中谷家で、親族ら12人と過ごしていたところ地震に襲われ、土砂崩れによって9人を亡くした。さまざまなメディアで悲惨な被害を語ってきた圭介さんは、地震からおよそ3カ月半過ぎた今どんな風に感じているのだろうか。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

母親は今も避難所生活

 地震発生当時、圭介さんが一緒に過ごしていた親族、家族12人のうち、9人が土砂崩れの犠牲になった。

 亡くなったのは、圭介さんの妻はる香さん(38)、長女優香さん(11)、長男泰介君(9)、次男湊介ちゃん(3)。さらにはる香さんの両親の春一さん(65)とりう子さん(66)、りう子さんの両親の六男さん(88)とよしいさん(89)。そしてはる香さんの義姉の知佳子さん(29)である。圭介さん以外で奇跡的に生き残ったのは、知佳子さんの夫の匠さん(41)と長男だけだった。

 北陸新幹線の敦賀延長に沸いていた3月16日の土曜日、金沢市の自衛隊駐屯地近くの一軒家に住む圭介さんを訪ねた。筆者は、珠洲市の避難所で母親の大間玲子さんと偶然知り合い、息子さんにつないでもらったのだ。玲子さんは、今も避難所暮らしを強いられている。

 1月には多くの取材を受けていた圭介さんだが、時間が経ち、取材に対する心境も変わっているかもしれないと思った。しかし、快く引き受けて下さった。

「母も心配ですが、今はここから気持ちが離れられなくて」と圭介さんは申し訳なさそうに骨壺の方を見やった。

 3年前に建てたばかりの新しい家の一室の奥に4つの骨壺が並ぶ。ひな祭りの祭壇も飾られ、室内のあちこちに在りし日の家族の写真が飾られていた。

集落の中でも、あの家だけが…

 圭介さんは最初に「運命の家」が建っていた時の航空写真をスマホで見せてくれた。

「隣の家はなんともなかったんですよ。仁江町の集落でも土砂に巻き込まれたのは妻の実家だけだったと思います」(圭介さん、以下同)

 正月の朝は、りう子さんとよしいさんが手塩にかけたおせち料理や雑煮を食べて近くの神社にお参りに行った。団らんしていると、午後4時6分、大地がぐらりと揺れた。震度5強。

「怖い」子どもたちは圭介さんやはる香さんに飛びついた。子どもたちは昨年5月1日の能登地震も経験していたので、怖かったのだろう。

 圭介さんは「仕事に行かなくてはならなくなった」と家族に言い聞かせて、緊急出勤すべく、車へ向かった。その時だった。4時10分、震度7のすさまじい揺れに襲われた。立っていられないほどだ。立ちすくんだその瞬間、ドーン、ザザーッという音がした、振り向くとさっきまで家族と過ごしていた家が土砂に飲み込まれていた。

「パニックになりました。家が倒れたのなら生きているかもしれない。でもこれ(土砂崩れ)では死んでしまうのでは、と直感しました」

サーモグラフィが反応

 圭介さんは「助けてください」と叫び続けた。

「自分はパニックになるだけでろくに救助もできない。近所の人や親類が倒れた家の下敷きになっていた匠さんと奥さん、その子どもを何とか引きずり出しましたが、奥さんは亡くなりました。居間で土砂に巻き込まれた私の妻や子どもの声は聞こえませんでした」

 救助は進まなかった。

「祖父(六男さん)の声がしていた。午後9時頃には、暗くなり、二次災害の恐れもあるので救助を中断しました。翌朝になって再開し、11時頃に発見された祖父は息がありましたが、ドクターヘリで搬送後に亡くなったんです」

 88歳の六男さんは今も船で漁に出る元気者だったという。

 1月3日の夜のことだった。

「親戚が持ってきたサーモグラフィが土中の熱に反応したんです。『えっ、生きているのでは』と一瞬、はかない希望も芽生えましたね。自衛隊に伝えて掘り進めたらその辺りに妻たちが見つかりました。妻が呼んだのか、あれは何だったのかなと思うんです」と天井を見上げた。

 1月4日、はる香さんと優香さんを自衛隊が発見した。5日に泰介君と湊介ちゃん、よしいさんが遺体で見つかった。後日、春一さんが見つかった。

 思い出したくないはずの辛すぎる話を圭介さんはしっかり語ってくれた。

妻はしっかり者でおっちょこちょい

 圭介さんは珠洲市で豆腐や酒類を販売していた両親のもとに生まれ、飯田高校、県内の大学を卒業し、最初、精密機器メーカー・キヤノンの子会社に勤めた。しかし、「ノルマに追われる営業生活に疲れ果てて」公務員試験を受けて警察官になった。昨年から珠洲署の警備課長となり、家族が住む金沢市から離れ、単身赴任していた。

 はる香さんは、圭介さんの妹が小中時代に所属していた珠洲市のバスケットボールチームのチームメートで、妹の1つ後輩だった。

「妹の応援に行ったりして顔を少し知っている程度でした」

 ある時、石川県主催の自治体対抗のスポーツ大会があり、はる香さんたちはバスケット、圭介さんは野球の代表として参加した。大人になってから再会したはる香さんは魅力的な女性に成長していた。一目惚れした圭介さんは大会後、妹に「ちょっとつないでよ」と頼む。妹は驚いたが取り次いでくれた。付き合いが始まり、2011年に結婚した。

「沖縄旅行でプロポーズしました。4月の結婚式の少し前に東日本大震災が起きました。自粛すべきかと悩みましたが、上司が『それは別だから』と言ってくれたので結婚式を挙げました」

 そして、「私は変わった性格で、時に気難しくもなり、妻は『私だからやってこれたのよ』と言ったりしましたね。しっかり者ですが、おっちょこちょいな一面もある明るい女性でした。保健師として働きながらの子育ては大変でしたが、しんどいことは外では絶対に言いませんでしたね」と感謝する。

子育てが終わったら…妻と語った夢

 3人の子どもに恵まれた。長女の優香さんは頑張り屋さんだった。

「あんまり運動神経がいいわけではないですが、マラソンなどに力を入れていて一緒に練習しました。そろばん、水泳など何でも真剣にチャレンジし、最近は小学校の合奏部で鉄琴(ヴィブラフォン)を弾くのが楽しみでした。優香はそろそろ反抗期の前兆もあったかな」

 長男の泰介君は運動神経がよくサッカーでも何でもやり、うまかった。

「私と野球もするようになりました。やんちゃですが気が優しく、私の誕生日にはお小遣いでトレーナーを買ってくれたんです。自分の物を買えばいいのに」

 末っ子の湊介ちゃんは、甘えっこで帰宅すると「高い、高い」をねだってくる。

「最近はアンパンマンより仮面ライダー。変身用のベルトのバックルなんかを大事にしていました。上2人がスポーツ系なので、『この子はピアノでも習わせようか』なんて妻と考えたりしていました」

 3年前、待望の一軒家を購入した。広い家で子供たちは大喜びだった。はる香さんとは「子育てが終わったら2人で旅行とか、買い物とかしような」と約束し合っていた。

 そんな夢も不安も、すべてが結婚から13年目の今年、一瞬で吹き飛んでしまった。

毎日、声に出して語りかける

 1月14日に葬儀・告別式が金沢市内で行われ、参列者は500人にも上った。

 喪主の圭介さんが参列者に向けた挨拶文を読んだ。想像もできないほどの辛い精神状況の中で書いたはずだが、感動的で無駄のない見事な内容だった。時折、声を詰まらせては隣に立つ義兄の匠さんに背中を叩かれて励まされていたが、実はその匠さんとて妻と両親、さらに祖父母も失っていたのだ。

 数々の取材を受ける中で、圭介さんは時折泣いていたが、筆者には涙を見せなかった。

「職場に復帰してからも普通にしているから、周囲は『案外大丈夫なんだ』と思っているかもしれない。でも1人になったらそうではありません。写真を見るのがつらくなって反対に向けてしまうこともあるんですよ」

 圭介さんは毎日、就寝前にその日の出来事を妻と子どもたちに声に出して語りかけている。災害でも生き残った人は「あの時」の行動を一生悔いることがある。圭介さんも大きな悔いが残っているという。

「1度目の地震が来た時、なぜ、みんなを家の外に出さなかったのかという後悔です。そうしていればあんなことにはならなかった。輪島市の市ノ瀬というところで、地震が来たらすぐに建物から飛び出す訓練をしているというのをニュースで見ました。余計に自責の念に苛まれたんですよ。でも人間って、前の年に地震があったからといって、もっとすごいことが自分に起きるとは思わないんですよね」と正直な感慨も語ってくれた。

「もうひとつは正月どこかに旅行でもしていれば、という思いも少しあります。でもそれは念頭になかったですね。妻の親や祖父母も、孫と一緒に過ごすことをすごく楽しみにしてくれていましたから」

 地震が元日に起きたことで、親戚の家などに帰省していた人が多かったことが被害を大きくした面もあるだろう。

頑張って生きていこう

 家族や恋人などを失った人がよく「自分も死んで天国で会いたい」と語ることがある。敢えて問うてみた。

 しかし、圭介さんは「妻や子どもに会いたいけど、死んだら会えるかどうかもわからないので……。それより彼らがもっと生きたかった分も僕が頑張って生きていこうと思うんです。妻や子どもたちは僕のことを見ていると思って」と語る。どこまでも前向きだった。

 さらに、圭介さんは「一生懸命生きた妻や子どもたちのことを世間の人に知ってもらいたい」と話していた。取材はそれに甘えた形でしかない。

 あの日、最初の揺れですぐに出勤しようとした圭介さんは上司に招集されたわけではない。「救助を求める人が出るかもしれない。1人でも助けなくては」という、珠洲警察署の警備課長としての強い使命感からだった。

「すぐに家族らを家から出すべきだった」という圭介さんの後悔は今後も消えることはないのかもしれない。だがはる香さんと3人の愛児は天国で今、あの日の圭介さんの行動に「やっぱりお父さんは立派だったんだね」と拍手を送っているだろう。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に『サハリンに残されて』(三一書房)、『警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件』(ワック)、『検察に、殺される』(ベスト新書)、『ルポ 原発難民』(潮出版社)、『アスベスト禍』(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部