独特な画風と作風、なにより作品を通底するテーマが斬新でした。「ナニワ金融道」は映像化もされ大ヒット作品となりましたが、作者の青木雄二さん(1945〜2003)も作品に負けず劣らず個性的な人でした。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今週は異能の漫画家の人生に迫ります。

「ワシのゼニは労働者から搾取したもんやない」

 西日本有数の高級歓楽街、大阪市北区の北新地。夜のとばりが下りるころ、きらめくネオンの海に男も女も飲み込まれていく。お忍びで訪れる芸能人やスポーツ選手。ドレス姿のホステスたちが、深々とお辞儀をして見送っている。

 きらびやかなこの街を、かつて上下ジャージー姿のサンダル履きで闊歩し、豪遊していた中年男がいた。カラオケでは「ワシ、小林旭しか歌わへんから」。マイクを握り、旭のヒット曲を高らかに熱唱した。

 2003年9月、肺がんのため58歳で亡くなった漫画家・青木雄二さんである。いまの若い人は知っているだろうか。カネとヒトの欲望を、1990年から97年まで、漫画雑誌「週刊モーニング」でリアルに描いた。

「ワシのゼニは資本家のように労働者から搾取したもんやない。ワシは絵を描く才能があった。その才能で稼いだゼニちゅうこっちゃ」

 そう豪語していた。人物描写も泥くさく、アクが強かった「ナニワ金融道」。どんなストーリーだったのか。

 主人公の青年・灰原達之は、勤めていた印刷会社が倒産し、大阪の「帝国金融」に再就職した営業マン。だが、裏金融の世界は右も左も分からない。強面の先輩たちの指導のもと、あれこれ悩みながらも貸し付けたカネを回収していく――。

 こんな感じだろうか。だが、灰原は「悪」に染まりきれない。その姿が読者に安心感を与え、辛辣な話なのに作品全体にはユーモアが漂っている。

「ナニワ金融道」で描かれた金儲けの密談は、北新地のクラブやラウンジで行われることが多い。本音むき出しに、濃厚なまでに人間の欲望が展開される。

 この漫画を描き始めたとき、青木さんはすでに40代。漫画家としては遅すぎるデビューだが、一体どんな人生を歩んできたのだろうか。

水商売を通じて学んだ人とカネ

 1945年、京都府生まれ。岡山県内の工業高校を卒業後、兵庫県神戸市の鉄道会社に就職した。駅舎設計などの仕事をしたが、大卒出身者との待遇の違いにホトホト嫌気がさし、4年で退社。岡山に戻り、町役場に勤めたが、今度は地方社会特有の保守的な雰囲気が性に合わず、わずか3カ月で退職した。

 理不尽なことを言われたりされたりしたら、すぐカッとなって口より手が先に出る性格。神戸の鉄道会社で働いていたときも、月に一度は同僚を殴ったという。

 結局、青木さんは大阪で新天地を探すことになり、キャバレーやパチンコ店など30店以上を渡り歩く。ボーイとして働き始めたキャバレーは、在籍ホステス250人の大型店。従業員のための寮があり、2段ベッドの下で寝起きした。店のホステスに手を出すボーイもいたが、発覚すると集団リンチに遭った。

 一方、店の上役はいろいろなホステスと関係を結んでいた。借金まみれになった従業員が、ある日、突然、蒸発するなんてことは日常茶飯事だった。

 そんな青木さんのことを、作家の宮崎学さん(1945〜2022)はこう話していた。

「水商売の仕事を通じて、人間の弱さ、醜さ、悲しさを間近に見たのだろう。極貧時代の経験が血肉になり、青木雄二という漫画家を育てたのではないか」

 青木さんは子どもの頃から絵を描くのが好きだった。25歳のとき自伝色の極めて濃い漫画を描いた。大手建設会社を辞めた男がラーメンの屋台を引く物語である。選者の1人だった手塚治虫さん(1928〜1989)が「民衆の立場で描き込んでいるムードは貴重」と評し、ビッグコミック新人賞の佳作に入賞したが、出版の話は一つもこなかった。

 30歳のとき、一念発起してデザイン会社を立ち上げた。社員15人を抱えたが、経営を軌道に乗せるのは難しい。結局は倒産。たったひとりでデザインの仕事をしながら借金を返済した。

 そのころだろうか。青木さんは古本屋でドストエフスキーの「罪と罰」に出会う。何度も読み返した。妄想にとりつかれ、金貸しの老婆を殺してしまった主人公ラスコーリニコフ。その姿がサラ金やカード地獄で一線を踏み越えてしまった人たちと重なって映った。

 1989年、講談社のコンテストに応募。「50億円の約束手形」が佳作に入選する。この作品が週刊モーニングの編集者の目に留まり、90年から「ナニワ金融道」の連載が始まったというから、人生、どこで何が起きるか分からない。

 カネが人間を支配し、狂わせる現実。「ナニワ金融道」の当初タイトル案は、いみじくも「踏み越えてしまった人々」だったという。

 私は江戸時代の浮世草子の作者で大阪生まれの井原西鶴(1642〜1693)の世界観を思い起こす。西鶴にかかっては「しょせん、この世はゼニや」。どんな人間もカネの亡者になってしまうのである。

「ナニワ金融道」の単行本は累計1600万部を超えるベストセラーとなり、テレビドラマ化もされた。莫大な印税が入ったことだろう。青木さんは連載が完結するや、「漫画家卒業」を宣言した。

「残りの人生、遊んで暮らす」

 そう言っていたが、新聞のコラム執筆やエッセーの出版など、意外に忙しい。愛車はベンツ。青木さん本人は免許証を持っていないので、運転は奥さんが担当した。

 それにしても、青木さんは「ナニワ金融道」で何を訴えたかったのか。

「世の中、矛盾だらけ。自民党の支配や公務員の腐敗はとんでもないことや。マルクスの説いた唯物論で行かなあかん、世の中をちゃんと知らんとあかんちゅうことですわ。僕には仕事をホサれる怖さがないから本音が言えるんや」

 かつてそう答えている(朝日新聞:1997年3月20日朝刊「ひと」)。

愛読者には弁護士や裁判官も

 私の自宅の本棚には「ナニワ金融道」が並んでいる。新聞記者にとっては、ある意味、バイブルである。今回「メメント・モリな人たち」の執筆にあたり、もう一度読み返してみたが、実に克明に描かれているのには改めて驚いた。マンガコラムニストの夏目房之介さん(73)が、以前、私の取材に「描くということに対する、作者の意識の異様なテンションが露骨なほど感じられる。既存の漫画文法を無視し、読みにくいはずなのに読者をぐいぐい引き込む力がある」と語っていたが、まさに細密画である。

 作品の中には、裏金融の実態やトラブルからの抜け道も分かりやすく描かれている。多額の借金を抱え、夜の仕事に身を落とす女性も登場する。夜のネオン街も、ここまで描くのかと思うほど生々しい。

 市役所の課長が「勉強会」と称し、政治家と金融会社の社員を接待する場面がある。1本12万円のブランデー。「費目は食料費。これで問題あらへん」と市職員が平然と答える。

 日本という国は、無知で正直な者ほど損をするのか。弱い者がさらに弱い者を追い立て、苦しめる。

「それはおかしいんや」と漫画を通して正々堂々と訴えたのが青木雄二という漫画家だったのだろう。愛読者の中には弁護士や裁判官も多かったそうである。バブル崩壊でマネーゲームの宴から目覚めた読者もいたに違いない。

 さて、北新地で豪遊していた青木さんの話に戻ろう。店がはね、自宅に帰る後ろ姿は、豪快なイメージとは裏腹に寂しかったそうである。結婚し、念願の長男が生まれたのは55歳のときだった。ヘビースモーカーだったことが命を縮めたのだろう。

「この世の中、たしかにカネは大切だが、カネにひれ伏し、振り回される人を、青木さんは嫌ったのではないか。『ゼニごときに負けたらアカンぞ』と、あの世から叫んでいるのかもしれません」

 読売新聞大阪本社の社会部記者だったジャーナリストの大谷昭宏さん(78)は言う。

「これからはますます勝ち組・負け組に二極化される。味も素っ気もない、殺伐とした社会になるやろ」

 前述した宮崎学さんとの共著「カネに勝て! 続・土壇場の経済学」(南風社、2004年刊)の冒頭に、こう青木さんは書いた。亡くなったのは、この本が出る前の年。03年9月である。

 没後21年になるが、世の中は弱肉強食の度合いがますます強まり、大手企業と中小・零細企業、正規と非正規の格差は常態化しているような気がする。「本当に景気が良くなったのだろうか」と庶民の多くが首をかしげる中、日経平均株価は1989年のバブル絶頂期につけた史上最高値を34年ぶりに更新した。青木さんが生きていたら、どんな漫画を描くだろう。

 次回は、由利徹さん。ドタバタ、ナンセンスな笑いを追究した、根っからの喜劇人・コメディアンだ。東京・浅草や新宿の街を歩きつつ、故人の足跡をたどる。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部