2020年3月、「生物兵器の製造に転用可能な機械を中国へ不正輸出した」という容疑で大川原化工機(神奈川県横浜市)の大川原正明社長(74)ら3人が警視庁公安部に逮捕された冤罪事件。長期勾留の末に癌で亡くなった同社元顧問の相嶋静夫さん(享年72)の遺族が「拘置所での医療が適切でなかった」として1000万円台の損害賠償を国に求めていた裁判で、東京地裁(男澤聡子裁判長)は「拘置所の診療行為は合理的で、違法性はない」として訴えを棄却した。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

「棄却します」の一言で終わり

 この日は抽選もなく傍聴席に座ることができた。午後1時15分、テレビ局の代表撮影が終わると男澤裁判長は「主文、原告らの請求を棄却します」と話し、2人の陪席裁判官とともにさっと退廷した。

 初めて裁判を傍聴したという女性が「さっぱりわからない。判決内容はどうなっているんですか」などと筆者に尋ねてきた。「刑事裁判は口頭主義ですが民事裁判はこういうのも多いんです」とかなんとか説明したものの、筆者とて判決の概要はさっぱり分からない。弁護士の記者会見を待った。

 相嶋さんの長男(50)と原告代理人の高田剛弁護士が東京・霞が関の司法記者クラブで会見を行った。

 長男は「想定していた中で最悪の判決。非常に残念な結果。癌がわってからの(父の)苦しみを裁判所に十分に理解してもらえなかった」と怒りを見せた。

胃痛はよくあるもの

 争点は拘置所内の処置や判断である。

 原告側は「拘置所に入った直後の血液検査の結果を受けた対応が不十分だった」「胃が痛いと訴えた後、経過観察するだけですぐに内視鏡検査もしなかった」「外部の病院に入院させるべきだった」などと主張し、そうしたことをしなかった拘置所の落ち度を指摘していた。

 しかし、判決では「刑事施設ではストレスから胃痛はよくあり、薬を処方したうえで経過観察としたのは一般的な医療措置。医学的に合理性がある」「拘置所の医師に治療義務違反はない」などとして拘置所の医療処置の過失を否定した。

拘置所での医療はずいぶん違う

 相嶋さんは20年3月に逮捕され、その年の9月末に貧血で倒れて拘置所内で輸血を受けた。10月6日、医師の検査で胃に悪性の腫瘍が判明。このため高田弁護士は再三、地裁に保釈申請したが却下され続け、11月になってようやく勾留の一時停止が認められ、横浜市内の病院に入院することができた。しかし、治療は手遅れで、翌21年2月7日に亡くなった。

 東京地検が異例の「起訴取り消し」を行ったのはその年の7月。相嶋さんは生存中に汚名を晴らせず、「刑事被告人」のレッテルを貼られたまま亡くなったのだ。

 在りし日の相嶋さんの写真を机に立てて会見に臨んだ長男は、拘置所での医療と一般の病院での医療を受けた患者の生存率の差異を示すグラフを見せた。

 その上で「拘置所では(一般的な意味の)医療がなされていないと思います。一般社会で病気になった人への治療と、拘置所での医療がずいぶん違う。そのことを裁判所が追認してしまった。拘置所側の考察が非常に浅い」と批判した。

 会見を見守っていた相嶋さんの妻は「どうして主人は死ななくてはならなかったのか。このままでは終われません。真相がわかるまで闘いたいです」と話した。

信念を曲げなかった相嶋さん

 原告側は拘置所の不適切な医療と相嶋さんと死亡との因果関係も争点にしていたが「判決は処置が適法とするだけで因果関係までいかずに済まされてしまった」と高田弁護士は不満を表した。

 相嶋さんの勾留期間は11カ月。この間、8回の保釈請求はすべて退けられた。嫌疑を認めれば釈放されるが、認めなければいつまでも勾留する。相嶋さんは絶対に信念を曲げず、「不正輸出」の容疑を認めなかった。まさに被疑者、被告人を長期間勾留し、身体を人質にして自白を引き出そうとする「人質司法」を地でゆく悲劇だった。

 高田弁護士は「ひとたび拘置所に入れられれば、一般的な水準の医療を受けられないばかりか、自分の健康情報にアクセスすらできない。お金があろうがなかろうが拘置所では関係ない。誰でもこういうことになる可能性があるんですよ」と話した。

 検察側が保釈させない理由は、口裏合わせなどの「罪証隠滅」があるからだ。大川原社長、相嶋さんとともに逮捕された元取締役の島田順司さん(70)については、関係する社員と接触しないという条件で保釈を認めようとしたが、別の裁判部が「口裏合わせをする疑いがある」として認めなかった経緯もあったという。

 もう一つは「逃亡」である。重病人の相嶋さんが逃亡することはありえないが、審理の過程で東京地検は日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告の国外逃亡も例示して保釈に反対していた。

裁判官が輪番制で判断

 NHKは3月21日放送の「時論公論」でこの裁判を取り上げた。解説委員は刑事訴訟法(89条)では保釈却下の条件として「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」とされているのを検察が「罪証隠滅の“おそれ”」にすり替え裁判所もそれを追認してしまっているなどと指摘していた。

 保釈申請の扱いは裁判官が判断するが、これは逮捕令状の発布と同様、裁判官の輪番制なので大川原化工機の事件でも20人以上の裁判官が関わっている。却下し続けたことが相嶋さんの命を奪ったのであれば、どの時点でどの裁判官が判断したかということはわかるのだろうか。わかるのなら相嶋さんの遺族が却下した裁判官を訴えることはできないのだろうか。

 気になったので、後日、高田弁護士に訊いてみた。

「保釈請求却下の決定書はそのたびに担当裁判官の名が書かれているので、訴訟の当事者には誰かはわかります。裁判官は国家公務員ですので、その判断が著しく不相当である場合は国を相手に訴訟を起こし、裁判官を証人として出廷させることが理論的には考えられます。とはいえ、裁判官の責任を追及するハードルはかなり高いですね」(高田弁護士)

 裁判官は医師ではないが、ある意味、人の命を預かっているのである。「独立性」が守られているだけに、輪番制であってもそういう意識を持って向き合ってほしい。

調書を破棄したとして刑事告発

 さらに、3月25日、大川原化工機側は元役員の島田さんの取り調べの際に「取調官が故意に文書を破棄した」として、文書を破棄したとされる安積(あさか)伸介警部補(現警部)と上司の宮園勇人警視に対し公用文書毀棄などの容疑で警視庁に告訴状を提出した。

 20年3月、島田さんは逮捕直後に取られた弁解録取書について、文面が話した内容と異なっていたため「修正してください」と求めた。安積刑事はパソコンで修正した振りをして島田さんに署名させた。その後、この調書はシュレッダーにかけて廃棄され、同刑事は「誤って破棄した」と報告した。

 大川原化工機が国と都を相手取った損害賠償請求訴訟では、昨年6月、公安部の同僚刑事が「捏造です」と証言。東京地裁は昨年12月、都と国の過失を認めて大川原化工機など原告側に合わせて1億6200万円の支払いを命じた。この判決の中で調書を「過失によって破棄したというのは不自然」と指摘された。

 告訴に際して島田さんは「捜査員らを罰しようというより、組織内部で検証していただきたいという思いが強い。自分たちの持つ公権力の大きさを認識してほしい」と話した。

 原告が勝訴した損害賠償請求訴訟も今年に入って双方が控訴している。大川原化工機の冤罪事件をめぐる攻防はまだまだ続く。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「『サハリンに残されて」』(三一書房)、「『警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」』(ワック)、「『検察に、殺される」』(ベスト新書)、「『ルポ 原発難民」』(潮出版社)、「『アスベスト禍」』(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部