現在、NHK大河ドラマ『光る君へ』で圧倒的な存在感を放っているのが、段田安則が演じている藤原兼家である。視聴者のあいだからも同様の声が上がっているようだ。

 当初から権力への執着心を丸出しにし、天皇に毒を盛るなどの裏工作をする様子が描かれてきた。その最たるものが、花山天皇(本郷奏多)を強引に退位させた寛和2年(986)の寛和の変だった。

 それは手の込んだ策略として描かれた。まず、寵愛していた女御の忯子(井上咲楽)が亡くなって憔悴している花山天皇に、陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)も抱き込んで、忯子を成仏させるには出家するしかないと思いこませた。続いて、天皇の秘書官長にあたる蔵人頭を務めていた三男(正妻の息子としては次男)の道兼(玉置玲央)に「私もお供します」といわせ、清涼殿から密かに脱出させると、東山の元慶寺に連れていって出家させてしまった。

 しかも、このとき兼家は同時に、三種の神器を東宮(皇太子)のもとに運び込むという用意周到ぶりで、娘の定子に産ませたわずか7歳の懐仁親王を即位させることに成功した(一条天皇)。こうして事実上のクーデターにより、外孫である天皇の摂政という最高権力者の地位を獲得。正妻に産ませた3人の息子、道隆(井浦新)、道兼(玉置玲央)、道長(柄本佑)をあからさまに出世させ、わが世の春を謳歌することになった。

 こうして、あらゆる権謀術数をいとわない兼家に扮する段田の演技には、最高権力者のオーラとどす黒い情念が併存して圧巻だった。

 だが、第13回「進むべき道」(3月31日放送)では、摂政になって4年後の兼家を襲った異変が描かれた。公卿たちが集まる会議で、その場の議論とは関係ない話をするなど、急に老いが迫っている模様で、周囲があたふたするのだが、それもまたリアルな演技で、視聴者の共感を集めたようだ。

父の兼家と息子の道長は対照的ではない

 一方、兼家の五男(正妻の子としては三男)で、『光る君へ』の主役のひとりである道長は、いまのところ、そんな父とは対照的に描かれている。第13回では前述の会議で、国司の横暴を訴える各国の民衆の請願が議題に上ったとき、長兄の道隆は「強く申せば通ると思えば、民はいちいち文句をいうようになる」と、相手にしないこと提案した。これに対して道長は、「民の声には切実なものがあるに違いありません」と、真っ向から反対したのである。

 権謀術数のかぎりを尽くし、わが世の春を謳歌するにいたった父の兼家と、「よりよき世」をつくろうとして、父や兄と張り合う道長。ドラマだから、主役の道長が理想に燃える若者として描かれることに違和感はない。しかし、史実の道長は、愚直なまでに父と同じ道を進んでいったことは、知っておいたほうがいい。

 今後、道長が進む道へのヒントが、第13回の兼家のセリフにあった。その会議での発言を受けて、道長は父から「お前が守るべきは民ではない。家の存続が政だ」と、強い調子で告げられたのである。すでに「まだらボケ」状態の兼家だが、こと「家の存続」の話になると、一変して鬼気迫る表情で道長に訴える。兼家の執念が、段田の迫真の演技から伝わった。

 もっとも、兼家がここにたどり着くまでの道のりは、必ずしも平坦でもなかった。兼家の祖父は関白太政大臣まで昇りつめた藤原忠平、父はその次男で右大臣を経験した藤原師輔で、血筋は申し分ない。ただし、師輔の三男だったために順風満帆とはいかなかった。

兄に虐げられたのちの逆転

 兼家は長兄の伊尹との関係はよく、康保4年(967)に甥の冷泉天皇が即位すると、次兄の兼通を超えて栄達した。安和2年(969)の時点で、兼家がすでに中納言だったのに対して、兼通はただの参議にすぎなかった。その後、兼家は正三位大納言にまで昇り、娘の超子を冷泉天皇に入内することも許された。

 だが、それが兄の兼通の恨みを買うことになった。天禄3年(972)に摂政太政大臣にまで昇り詰めていた伊尹が亡くなると、兼通は一挙に内大臣に昇進し、天延2年(974)には関白太政大臣になって政治の実権を手にした。その兼通も貞元2年(977)に病に倒れ、関白も太政大臣も辞するのだが、それによって弟の兼家が台頭することだけは阻止したかったようで、兼家から右大将を取りあげて治部卿という閑職に左遷。関白には従兄弟の頼忠を就任させて、兼家の出世の道をふさいだのである。

 こうして転んだのちに這い上がったのが兼家だった。兼道が没した翌年、貞元3年(978)には右大臣に昇進。天元元年(978)には娘の詮子(ドラマでは吉田羊)を円融天皇(坂東巳之助)に入内させ、生まれた孫の懐仁親王を天皇にするように、あらゆる手を尽くしたことは、ドラマでの描き方には脚色もあったものの、方向性としてはそのとおりだといえる。

 そして、第14回「星落ちてなお」(4月7日放送)では、長男の道隆を後継に指名したのちに死去する。兼家が病気のために関白を辞し、道隆に関白職を譲ったのは永祚2年(990)5月だが、道隆はすでにその年の正月、長女の定子(高畑充希)を一条天皇の女御として入内させていた。兼家は自身の出世に執着するとともに、いったん出世したのちは、昇り詰めた地位を「家」として「存続」させることに腐心していたのだ。

 そして、道長のその後は、そんな父の背中を見た結果であるとしか考えられない。

「家」を発展させるために手段を選ばなかった

 長徳元年(995)に兄の道隆、兼家が疫病のために相次いで没すると、権大納言だった道長は、天皇へ奏上する文書を天皇より先に見ることができる内覧になる。その時点では、道隆の長男である伊周は内大臣に就任し、道長より上位にいた。しかし翌長徳2年(996)、伊周は女性をめぐって花山法皇に矢を射る失態を犯して自滅。道長は左大臣に昇進して、政界の第一人者になった。

 以後は父と同様、「家」を盤石にするために手段を選ばなかった。長保元年(999)に長女の彰子を一条天皇に入内させると、子を産ませて天皇にすることに最大の労力を投じる。一条天皇には、兄の道隆の娘である定子がすでに入内していて、彰子が入内したまさにその日に第一皇子である敦康親王を出産していた。しかし、道長としては、なんとしても彰子に皇子を産ませて即位させたい。

 そこで、まず長保2年(1000)、すでに中宮(皇后と同意)の定子がいるのに、彰子を中宮にして、中宮だった定子を皇后宮とした。要は、中宮も皇后宮も呼び名は違っても同じことなので、史上はじめて一帝二后となったのである。

 入内した当時、12歳にすぎなかった彰子が寛弘5年(1008)、ようやく皇子の敦成親王を出産し、翌年、敦良親王も生まれると道長は狂喜し、以後は兄の道隆の孫である敦康親王を排除することに腐心。長和5年(1016)、眼病を患った三条天皇に譲位を迫った末、第一皇子が天皇になるという先例を破って、第二皇子であった外孫の敦成親王を即位させ(後一条天皇)、自分は摂政になった。

 念願の摂政ではあったが、道長はたった1年で、まだ26歳だった長男の頼通に、摂政と藤原氏長者の座を譲り、自身は無官のまま実権を握り続けた。また、正妻の倫子とのあいだに生まれた娘4人は、彰子だけでなくいずれも天皇や東宮のもとに入内させ、「家」を守るための盤石の体制を築いた。

 道長がドラマと同様に、「民の声には切実なものがあるに違いありません」といったことがあったとしても、それは若気の至り。父たる兼家の歩んだ道を踏襲し、さらに大きく広げたのが史実の道長である。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部