天皇皇后両陛下の長女・愛子さま(22)が4月から日本赤十字社に勤務されている。配属先は「事業局パートナーシップ推進部 ボランティア活動推進室 青少年・ボランティア課 ボランティア活動推進室」。一体、どの様な仕事をされているのだろう。

 ***

 日本赤十字社というと、どのようなイメージがあるだろう。起源は西郷隆盛が決起した1877年の西南戦争に遡るという。日赤の公式ホームページでは、こう紹介されている。

《赤十字は、アンリー・デュナン(スイス人:第一回ノーベル平和賞受賞者)が提唱した「人の命を尊重し、苦しみの中にいる者は、敵味方の区別なく救う」ことを目的とし、世界191の国と地域に広がる赤十字・赤新月社のネットワークを生かして活動する組織です。/日本赤十字社はそのうちの一社であり、西南戦争における負傷者救護で初めての活動を行って以来、国内外における災害救護をはじめ、苦しむ人を救うために幅広い分野で活動しています。》

 日赤といえば、献血や赤い羽共同根募金といったイメージを持っている方も多いのではないだろうか。皇室担当記者に聞いた。

「まず誤解のないよう言っておくと『赤い羽根共同募金』は日本赤十字社ではなく、共同募金会が行っているものです。日赤は、91の赤十字病院、47の地域血液センターを全国で運営し、献血をはじめとする血液事業は日赤だけが行っている活動です。また、地震や台風などの自然災害などが発生した際は直ちに医療救護班を派遣し、災害救護活動も実施しています。海外で発生した紛争や災害の被災者支援も活動のひとつです。それらの資金の多くは、寄付金によって賄われています」

 なぜ愛子さまは日赤を選ばれたのか。

国民と苦楽を共に

 愛子さまは宮内記者会の質問に、こうお答えになられた。

《私は、天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下を始め、皇室の皆様が、国民に寄り添われながら御公務に取り組んでいらっしゃるお姿をこれまでおそばで拝見しながら、皇室の役目の基本は「国民と苦楽を共にしながら務めを果たす」ことであり、それはすなわち「困難な道を歩まれている方々に心を寄せる」ことでもあると認識するに至りました》

 やはり、天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下の影響が強いようだ。愛子さまが続ける。

《そのような中で、ボランティア活動を始め、福祉活動全般に徐々に興味を抱くようになりました。特にボランティア活動に関心を持つようになったのは、一昨年の成年を迎えての会見でも述べましたように、災害の被災地に赴き厳しい環境の中でも懸命に活動を続けるボランティアの方々の姿をニュースなどで目にして胸を打たれたことや、中学・高校時代からの親しい友人が、東日本大震災の復興支援にボランティアとして携わってきており、その友人から活動の様子を聞いたことなどが大きなきっかけとなったように思います》

 それで青少年・ボランティア活動推進室での勤務になったようだ。具体的には、どの様な業務に携われるのだろう。元国際赤十字インドシナ駐在代表の吹浦忠正氏は言う。

日本のボランティアの母

「日本各地の高校や大学には、『青少年赤十字』と呼ばれる赤十字活動に携わる多数の団体があります。そうした団体に赤十字精神とは何かを教え、またそのサポートをするというのがメインの仕事になります。国際課のような危険な地域に行くわけではありませんし、ボランティア活動をしたいとおっしゃっていた愛子さまですから、新社会人のスタートとしては最も相応しい部署に配属されたのではないでしょうか」

 実を言うと、この部署には上皇后美智子さま(89)との奇縁もあるという。

「この青少年・ボランティア課の2代目課長(当時は青少年課)は、日本のボランティア運動の母とも言われる橋本祐子(さちこ)さん(1909〜1995)で、美智子さまとはとりわけご交流が深く、毎日のように電話するほどの間柄でした」(吹浦氏)

 日赤のホームページには、橋本氏についての記述がある。

《戦後の青少年赤十字をけん引した人物の中に、橋本祐子がいます。/1909(明治42)年に父の赴任先の中国・上海で生まれた橋本は、日本女子大学を卒業後、大蔵省官吏の夫と結婚。北京で終戦を迎え、引き揚げ後は母校で英語教師を務めていました。日本赤十字社の奉仕団の立ち上げに関わったことを機に、1948(昭和23)年に日赤入社。青少年赤十字の再建と発展に人生を捧げました。1960(昭和35)年から1971(昭和46)年まで、青少年課長を務めました。/リーダーシップ・トレーニング・センター(トレセン)の開始、青少年赤十字機関紙の創刊、青少年赤十字国際セミナー「こんにちは’70」開催など、業績は枚挙にいとまがありません。/「青少年間における国際理解とジュネーブ条約の普及を通して世界平和の推進に努力」したことなどが高く評価され、1972(昭和47)年に国際赤十字最高の栄誉「アンリー・デュナン記章」を、アジアで初めて、女性として世界で初めて受章しました。》

 まさに“日本のボランティア運動の母”である。もっとも、美智子さまとの交流については触れていない。前出の皇室担当記者は言う。

通訳ボランティア

「戦後、日赤の名誉総裁は、初代の香淳皇后(1903〜2000)以来、代々皇后陛下が務められています。現在の名誉総裁は雅子さま(60)です。なかでも2代目総裁の美智子さまは、皇太子妃になってわずか10日後に名誉副総裁に加わりました。すでに日赤職員だった橋本さんとは、ボランティア活動についてたびたび話し合っていたと聞きます」

 なかでもお二人が強く結びついたのが、1964年に開催された東京五輪だった。

「といっても、美智子さまがより関心を持たれたのは、東京パラリンピックでした」(同・記者)

 2021年に開催された東京パラリンピックも話題になったが、1964年の東京五輪でも開催されていた。

「60年のローマ五輪と共に開催されたのが第1回パラリンピックで、東京は第2回でした。美智子さまは通訳ボランティアについて橋本さんと何度も話し合ったそうです」(同・記者)

 橋本氏も動いた。前出の吹浦氏は言う。

「“日本語は世界の秋田弁や薩摩弁。海外からいらっしゃる選手たちは日本に着くや、もうひとつの障害を持つのよ。言語障害。さあ、みんなで通訳ボランティアを目指しましょう”との言葉で、当時の若者たちが奮い立ちました」

 のちに国際ボランティアの草分けとなり、英国赤十字社の評議員を務めた喜谷昌代氏(1936〜2019)もその一人だったとインタビューで答えている。彼女の父親は実業家で衆院議員も務めた飯塚茂氏(1889〜1945)。終戦の年、乗っていた民間機が連合軍に撃墜されて亡くなるという過去があった。父親を弔うために日本航空の乗務員になり、後に同じ日航の社員と結婚したが、当時は夫婦での勤務は認められていなかった。

美智子さまからの電話

《喜谷:当時は辞めなくてはいけなくて、喜谷(註・夫)の勤務地のパリに参りました。そのパリから、東京オリンピックのあった1964年に帰ると、聖心女子学院で2年先輩の、当時皇太子妃の美智子さまからお電話があって「あなたみたいな人は、他人の苦しみがわかるかもしれない。赤十字で働いたらどう?」とおっしゃって。

――美智子皇后さまがボランティアに導かれたのですか?

喜谷:はい。当時の日本赤十字社、青少年課の橋本祐子課長という方を紹介して下さったんです。》(「フィランソロピー」2016年10月1日付)

 美智子さまと橋本氏との結びつきの強さがわかる。

「橋本さんは95年10月6日に86歳で亡くなりました。その死が伝えられると、ボランティア活動に携わる“橋本学校”の弟子たちをはじめ、大勢の人々が通夜に駆けつけたそうです。その部屋に置かれた弔花のひとつは、美智子さまが下賜されたものでした。それほどの縁がある青少年・ボランティア課で、愛子さまが活動されることになりました。天皇皇后両陛下、上皇陛下はもちろんですが、美智子さまはさぞお喜びでしょう」(吹浦氏)

デイリー新潮編集部