前編【だから母は僕にベッタリだったのか…両親の“秘め事”を盗み聞きして知った、彼らの複雑な関係性】からのつづき

 坂本矩之さん(41歳・仮名=以下同)の母は、ひとりっ子の彼を盲目的に支配した。友だちの素性を知りたがり、時に「つきあってはいけない」と口を出す……。そんな言動の背景に父の影響を感じたのは、中学生時代、両親の“夜の営み”を盗み聞きしたことがきっかけだった。行為を拒否するような母の声、“おまえはそういう女だ”と言い捨てる父の台詞……。それは両親の関係の複雑さを矩之さんに想像させるものだった。その後、大学時代に父は急逝、矩之さんは母を捨てるように就職すると、28歳の時に妊娠を機に優美香さんと結婚した。

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 関係ができたときから、優美香さんは「私は妊娠しづらい体質なの」と言い続けてきた。だがあっけなく子供ができた。不思議に思った矩之さんが聞いてみると、「うちは親がうるさいから、こうでもしないと結婚できない」とつぶやいた。

「それを聞いて嫌な予感はしました。親に人生を支配されるのはもううんざりでした。だから結婚するにあたっては、親との縁は切るつもりでいてほしいと優美香に言ったんです。彼女はそれを恨みに思っていたようですが」

 そのときはそんなことはわからなかった。ふたりとももう大人なのだから、手を携えて新しい人生を歩もうと彼は決めた。優美香さんは結婚式をしたがったが、彼はしないと言い張った。親にお金を出してもらうつもりでいる優美香さんを、結婚式はいつか自分たちの力でやろう、それより僕らは子どものことを考えなくちゃと諭した。

「結婚したときから、どこかすれ違っていたんでしょうね。優美香は親をうっとうしく思いながらも、ちゃっかりお金は出してもらおうとするんです。僕はそれが許せなくて。金を出してもらえば口を出されたときに無視できない。世の中はそういうものだろと言ったら、『だって親子なのよ。最終的には私の意見が通るから大丈夫』って。結婚式をしないなら新居を用意すると優美香の父親が言ったんですが、それも断りました。貧乏でも自分の力で生きていくからと言って」

「私の主婦としての能力を過小評価している」

 ある日、優美香さんが突然言った。「私、仕事辞めてきたから」と。矩之さんは、当然、共働きだと考えていたからびっくりしたという。優美香さんが勤めていた会社のほうが給料がよかったはず。自分だけの収入では、この先が不安だった。

「大丈夫、私は貯金があるし、子どもが産まれたらまた仕事を探すからと優美香は言っていました。僕のほうはどんどん仕事が忙しくなって、家にも帰れない日があった。仕事は楽しかったけど、妊娠中、そして娘が産まれてからの優美香は心細かったと思います。いつも悪いなと思っていたし、家にいるときは子どものめんどうから家事、料理までなるべく全部やろうとしていたんです。せめて優美香にゆっくりしてもらおうとした」

 だが、彼が家事や料理をすると妻は不機嫌になった。「あなたは私の主婦としての能力を過小評価している」というのだ。本来、自分がやるべきことを夫がさらっとやってしまうことが嫌だったのか、自分の居場所がなくなりそうで不安だったのか。

「実際、僕のほうが主夫は向いていたのかもしれない。子どもは僕があやしたほうが泣き止むし、料理も掃除も優美香より僕のほうがうまかった。もちろん、彼女にはそんな自慢はしたことありません。優美香にゆっくりしてもらいたいだけというのは本心です。ただ、男はろくに家事などできないと思っていた彼女の気持ちが覆されたのは確かだと思います」

 仕事に全力を尽くし、休みがあれば家の中のことをしてくれる。これほどいい夫はいなそうだが、優美香さんはやはり自分がすべきことを迅速にしてしまう夫に妬みを感じたのだろうか。

夜の営みを拒否する妻

 娘が産まれてから3ヶ月ほどたったころ、矩之さんは優美香さんをベッドに誘った。ところが優美香さんは拒絶した。

「私がどれだけ疲れているのかわかってるの、と冷たい口調で言われて、妻への気持ちが急速に萎えていきました。こっちこそ、きみのためにどれだけ尽くしていると思ってるんだよと売り言葉に買い言葉で……。そのとき、中学生のあの晩のことを思い出したんです。父が母に無理強いしたことを。だけど僕にはできなかった。嫌がっている女性をどうこうしようなんて絶対にできない。僕は気持ちも体も萎えるだけでした」

 その日から、矩之さんと妻との間に大きな暗い河が横たわるようになった。だが彼はそれに気づかないふりをした。そして時間を見つけては、娘のめんどうをみたり家事をすることに変わりはなかった。

「娘は小さいころから僕の作るオムライスが大好きだった。娘がおいしく食べられるものをいろいろ考え出しました。野菜を小さく刻んで混ぜ込んだミートボールは週に1度は作ってと迫られたので、あるとき作って冷凍にしておいたんです。そうすれば食べたいときにそのままトマトで煮込めばいい。でも数週間後、それがゴミとして捨てられていた。妻が捨てたんでしょう。どういうことなのと冷静に尋ねました。妻は冷凍期間が長くなったから、と。妻のプライドがどこから来ているのかよくわからなかったけど、とにかく僕が家の中をマネジメントしているような感じが嫌だったんでしょう。娘が僕に懐いているのも許せなかったのかもしれない」

 それと同時に、妻の親がときどき家に来ているのもわかった。あるとき忙しいさなか、急に仕事がキャンセルとなった。久々に早く帰ってみると、玄関に女性ものの見慣れない靴があった。リビングからは妻の聞いたこともないような笑い声が聞こえてくる。

「妻の母が来ていたんです。一瞬、もう一度ドアを閉めて外に出ようかなと思いました。するとリビングから娘が出てきた。僕の顔を見て顔を輝かせたので手招きして、『どうしたの』と聞くと『自分の部屋に行く。おばあちゃんがうるさいから』と。じゃあ、パパと一緒に何か食べに行こうかと言ったら、娘は大喜び。その場で連れ出して、妻にはLINEで知らせました。ふたりで何か食べて帰るから、と」

どうして結婚したんだ?

 娘は、祖母がときどき来ていること、来るとお鮨をとるなど贅沢をしていることなどを教えてくれた。ママはよくおばあちゃんからお金をもらってるよ、でもおばあちゃんはパパの悪口を言うから嫌なの、と娘は暗い顔をした。そういうときはママもはしゃいで、パパのことを悪く言ってる、と。

「妻が働かないのは親から小遣いをもらっているからだとわかりました。小遣いという程度ではすまない額かもしれません。僕は妻に恨まれるようなことをした覚えはない。むしろ一緒に家庭を作っていこうとがんばっていたのに」

 矩之さんがあれこれ考えていると、小学校に入ったばかりの娘が「私、男の子のほうがよかった?」とつぶやいた。どういうことかと聞くと、「おばあちゃんは、あんたが男の子ならさっさと離婚できたのにねってママに言った」のだという。

「それを聞いてさすがに腹が立ちました。子どもが聞いてどう思うかを考えもせず、無配慮な言葉を並べ立てるなんて。妻の親は僕との結婚にはやはり反対だった、でも妊娠してしまったものはしかたがない、だけど産まれた子が女の子でがっかりしている。そういうことですよ。薄々わかっていたけど、だったらどうして結婚したんだろうと疑問を覚えました」

 結婚当初から、いや、それ以前から優美香さんからの愛情を感じたことはほとんどなかった。そもそも自分は愛情の感度が低すぎるんですと矩之さんは言った。母親の愛情のかけかたが歪んでいたから、愛情を感知するセンサーも歪んでいたのかもしれない。

相談相手になってくれた同僚の女性

 矩之さんは、そういったことを少し年上の同僚女性である慶子さんにときどき愚痴っていた。彼女は離婚してシングルで娘を育てている。すでに子どもは大学生となっていたから、彼女の経験話は彼の心に刺さることが多かった。同業他社に勤めていた優美香さんのことも知っていたので、話しやすかった。

「慶子さんはひとりで苦労しながら育てたようで、娘さんにも会ったことがあるんですが、すごくいい距離感で母子関係を築いている。妻のことを愚痴って、どうして妻にとって無価値である僕と結婚したんだろうと言ったら、『一般論だけど、そういうときって女性には別れたい人がいることってよくあるわよ』って。ハッとしました。そうだったのか、と。そういえば優美香には不倫の噂があったんです。僕は気にしていなかったけど、あれは噂ではなかったのかもしれない」

 そして1年半前、妻は子どもを連れて突然、家を出て行った。その後、離婚調停が申し立てられて現在に至る。原因は「夫の浮気」だと主張。つまり、矩之さんが浮気しているというのだ。

「どんな探偵を雇ったのかわかりませんが、僕と慶子さんがホテル街を歩いているところとか一緒に食事をしているところなどの写真がありました。ホテル街は歩いて抜けただけ、食事はときどきしていたけど、不倫関係はまったくありません。でも調停員は、妻の言い分を信じ込んでいる。妻の弁護士がまた、いろいろな手を繰り出してくるんですよ」

 離婚するのはかまわないが、自分が不倫をしているわけではないことだけは証明したい。彼はそう強く願って、自分を信じてくれる弁護士を立てた。妻の狙いが何なのかはよくわからない。ただ、親の手前、夫に非があるから別れることにしたいのかもしれない。

「ときどき娘から連絡が来るんです。娘は僕を信じてくれていると思う。ただ、妻は母親ともども娘に僕の悪口を吹き込んでいる。娘が毒されるのではないかと心配なんです」

妻の本心は…

 妻の本心はどこにあるのか、いったいなぜ離婚を唐突に言いだしたのか。矩之さんは慶子さんにその話をした。すると慶子さんが衝撃的な話をつい先日、伝えてくれた。

「妻が独身時代つきあっていた不倫相手、とうとう離婚したらしいんです。それで妻は僕と離婚を考えたのかもしれません。ということは結婚している間も、妻とその男は関係が続いていたのかもしれない。僕の友人関係を不倫だと訴えておいて、実際は自分が不倫していた、そしてその男と一緒になりたいから離婚を申し出た。それが妥当な線だと思います」

 調停はうまくいかず、そろそろ裁判が始まると彼は言った。彼の弁護士は親権はとれると言っているそうだ。

 離婚については、大人同士だから冷静に進めればいい話。そこに子どもを巻き込むなと言いたいんですと彼の声が大きくなった。夫婦関係に子どもを巻き込むとどうなるか、彼がいちばんよくわかっているからだ。

 後日、彼から連絡があった。娘が自分の意志で「おとうさんと一緒にいたい」と言ってくれたそうだ。結審はまだだが、おそらく遠からず、娘とふたりで暮らせる日が来ると思うと言った彼の声は弾んでいた。

前編【だから母は僕にベッタリだったのか…両親の“秘め事”を盗み聞きして知った、彼らの複雑な関係性】からのつづき

亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。

デイリー新潮編集部