米国と韓国は日朝首脳会談に関心を寄せるが、その可能性は消えた。原因は林芳正官房長官発言と、岸田文雄首相の「姿勢変化」だ。官房長官の「拉致問題がすでに解決されたとの(金与正党副部長の)主張は全く受け入れられない」との言葉に、金与正氏が怒り「日朝交渉はない」と宣言した(3月26日)。官房長官は翌日には「従来の立場に変わりはない」と言葉を変えたが、今更遅い。岸田文雄首相も「無条件の首脳会談」の言葉を使わなくなった。真実は、何か。

林官房長官の失敗

 私は林官房長官と古い知り合いだ。官房長官の成功を願っている。残念だが、官邸には「北朝鮮的文学」を解析できる人物がいなかった。林長官は知識と教養ある政治家だが、官僚を信頼し過ぎ、自分の判断を示す度胸に欠けると心配されている。政治判断は政治家がするもので、官僚に任せたら国民の信を失うからだ。

 北朝鮮の金与正・党副部長は、金正恩総書記の実の妹で、指導者に直言できる唯一の人物だ。「日本とのいかなる接触・会談も拒否する」と宣言した(3月26日)。2月中旬には「日朝首脳会談は可能かも」と述べていたのに、なぜ態度を急変させたのか。

 彼女はその理由を述べた。「内閣官房長官は、記者会見(3月25日)を通じて、拉致問題が解決したとの(私の)主張を、絶対に受け入れることができないとの立場を明確にした。…日本とのいかなる接触、会談も拒否する」。

 与正氏は、一連の談話で「拉致問題解決を、首脳会談の前提にするな」とは要求しなかった。「すでに全て解決した拉致問題を過去に持ち出したから(日朝関係は)悪化の一途をたどった」と、過去の経過に触れただけだ。拉致問題についても「障害物」と述べ、「動かせる」との理解を示唆していた。

 彼女の一連の発言は、日本に配慮していた。北朝鮮が経済・外交で日本を必要としている事情が、読み取れた。「会談の入り口で、拉致問題を首脳会談の前提と言わないでほしい」との、思いを込めた発言だった。

金与正の「反対派」

 なぜ、ここまで「弱気」の発言をしたのか。与正氏の発言については、内外で多くの分析がある。歓迎の一方で、日本や韓国では「日米韓離間戦略」「戦争の準備」まで様々だ。ただ、現段階では軍事行動の余裕はない。中露が阻止する。

 日本と同じように、平壌の高官の間でも異見がある。最大の反対派は「金正日忠誠派」だ。「金正日総書記は、拉致問題を二度と日本と話し合うなとの遺訓を残した」と主張する。

 金正日の遺訓とは、日朝首脳会談で日本側が(1)国交正常化実現(2)経済協力資金提供に合意したのに、履行しなかったことに怒ったためだ。この遺訓を修正できる人物は、誰もいない。残念ながら、この事情を官房長官周辺は理解していない。結果として、林長官の足を引っ張った。

与正氏表現の意味

 金正恩総書記と与正氏は、金正日氏の「遺訓」に従ったふりをしないと、幹部らに「日朝首脳会談」を説得できない。与正氏の発言は「反日派」に配慮したものだ。でも「拉致、核・ミサイルを持ち出すな」とは言わなかった。

 そう受け取られる表現をしたに過ぎない。「(日本が拉致問題を)持ち出したから、(過去に)日朝関係は悪化の一途をたどった」と述べた。金正恩忠誠派の老人グループと軍幹部がヘソを曲げると、首脳会談はできない。この与正氏表現の意味を、残念ながら官邸は理解できなかったのだろう。

 どうすれば良かったのか。林長官は(1)無条件での首脳会談実現(2)日朝平壌宣言に従い問題を解決するとだけ言うべきだった。平壌宣言は金正日総書記がサインした文書だから、誰も反対できない。平壌宣言の文言には、拉致問題を話し合える根拠がある。

 もう一つ不可解なのは、岸田首相の姿勢だ。岸田首相は、4月の記者会見から「無条件の日朝首脳会談」の言葉を使わなくなった。何があったのか。一つは、総選挙(4月10日)を前にした韓国から「選挙が終わるまで、日朝首脳会談に言及しないでほしい」との申し入れがあった。

 米国からは「首脳会談はいいが、国交正常化と経済協力資金の提供は問題」との意向が、伝えられた。

岸田首相の「別のルート」

 官邸周辺では、拉致解決の主導権をめぐる省庁間の争いがあった、とも勘ぐられている。与正氏は3月25日に「岸田首相が別のルートを通じて、日朝首脳会談の意向を伝えてきた」と、歓迎する立場を述べた。これは、岸田首相の意向が公式に届いたとの、初めての言及だった。

 この「別ルート」を知らない政府関係者は、驚愕した。「別の経路」は、北朝鮮と親しい国家の首脳が金正恩氏に岸田首相のメッセージを届けた、との意味だ。首脳の「経路」でないと、正恩氏と与正氏は受け取らない。北朝鮮と親しいベトナムかモンゴルの首脳が、首相メッセージを伝えたのだろう。

 自分たちが知らないルートで首相が動いていると知り、妨害に走ったと語る人たちがいる。誰かが官房長官の記者会見問答集に、「拉致問題がすでに解決したとの主張は、全く受け入れられない」との表現を入れたのだ。

 北朝鮮は、なぜ日朝首脳会談を必要としたのか。昨年末の党中央委総会で建国の目標であった「南北統一政策」を放棄し、史上初めて大韓民国と尹錫悦大統領の存在を認めた。以前は「南朝鮮」であったから、国内は混乱した。さらに、年初には唯一の同盟国であったキューバが裏切り、韓国と国交正常化した。この「失点」を巻き返すために、日朝首脳会談を必要とした。

北朝鮮は極度の経済難

 林官房長官の発言を、与正氏は岸田首相が指示したものと受け止めた。平壌では「だから日本人は嘘つきだ」とのウワサが流れた。この言葉には、「それも知らないのか」との与正批判が込められた。

 与正氏の「2・15談話」は、自分が「日本担当の責任者」であるとの、初の公式挨拶状であった。それなのに、日本にコケにされたとの感情が伝わる。

 北朝鮮は社会主義国家だ。労働党が政府省庁や軍を指導する。その意味では、岸田首相が主張してきた「首相直轄のハイレベルでの対応」は正しい。北朝鮮の外務省には、決定権限はない。金正恩氏と面会でき、直接報告できる人物が、北朝鮮では高官だ。それは与正氏しかいない。

 今回の挫折で、岸田政権下での日朝首脳会談は消えた。でも、北朝鮮は極度の経済難に直面しているから、また必ず呼びかけてくる。日本からの資金がないと、経済困難は打開できない。中国とロシアの北朝鮮戦略は「生かさず、殺さず」で、経済発展を望んでいない。発展した北朝鮮が言うことを聞かなくなるのは、中露の悪夢だ。

重村智計(しげむら・としみつ)
1945年生まれ。早稲田大学卒、シェル石油、毎日新聞社・ソウル特派員、ワシントン特派員、論説委員を歴任。拓殖大学、早稲田大学教授を経て、早稲田大学名誉教授。東京神学大学大学院。朝鮮報道と研究の第一人者で、日本の朝鮮半島報道を変えた。著書に『外交敗北』(講談社)、『日朝韓、「虚言と幻想の帝国の解放」』(秀和システム)、『絶望の文在寅、孤独の金正恩』(ワニブックPLUS)、『半島動乱』(ビジネス社)など多数。

デイリー新潮編集部