水谷隼は東京2020の混合ダブルス、伊藤美誠とのペアで優勝。日本卓球史上初の五輪金メダルだった。

 卓球を始めたのは5歳の時だ。

「両親が卓球経験者で、自宅に卓球台がありました。兄と妹も一緒にやっていたから、自然に始めた感じです。7歳(小学1年生)の時、全日本選手権バンビの部(2年生以下)で2位。8歳の時は優勝した。それから世代別の大会はすべて優勝しました」

 なぜ水谷だけが抜群に強かったのか?

「サッカーとかソフトボールとかいろんな競技をやったけど、何をやっても抜きん出てうまかった。どのスポーツでもプロになれる感覚があった。そんな中で、僕は卓球を選びました。卓球がいちばん難しかったからです。スポーツの中で、ダントツに卓球が難しい」

 高速ラリーの一本一本、ボールの回転方向を把握して打ち返すのは至難の業だ。

「そのために血のにじむ努力をして、体中で覚えていくしかないんです」

 最初の数年間は両親がコーチだった。

「練習は間違いなく日本一厳しかった。恐怖を与えて無理にやらせる指導でした。たたかれるのは当たり前。怒られないため、身を守るために卓球をしていた」

 小学校3年の頃、両親の判断で元実業団選手にコーチしてもらうようになった。さらに中学2年の時、「とにかく家を離れたくて」ドイツに留学した。日本卓球協会がジュニアを海外に送る支援をし始めた時期だった。

「親元を離れたら日本一になれる、自分には才能があると思っていました」

じゃんけんの感覚

 小学生の頃は「卓球をやめたい」と思っていたが、ドイツに行って「自然と気持ちの切り替えができた」と言う。

「中学2年で学校にまったく行かなくなった。ドイツでは平日は朝から練習、週末は試合。自分はもう一生、卓球で生きていかなきゃいけないんだと思いました」

 孤独な水谷を支えたのは、卓球の未来を自分が担う使命感だった。

「卓球をメジャーにしたいと小さい頃から考えていた。卓球はこれだけ勝つのが難しいのに、どうして日本では評価が低いんだ? 卓球で一番の選手はスポーツで一番だと思っていた。卓球のステータスを上げたい!」

 2012年のロンドン五輪で女子が団体銀メダルに輝き、卓球人気はメジャーになった。ところが、テレビで話題になるのはほぼ100%、女子だけだった。

「女子に埋められない較差をつけられちゃった。世界選手権の成績や世界ランキングは女子に負けていない。だけど、五輪のメダルは大きかった。男子が注目されるには、リオ五輪でメダルを取るしかない。もっともっと強くなる必要があると思って13年からロシアリーグに挑戦した。日本の男子では初めてプライベートコーチもつけた」

 その成果はすぐ表れた。

「13年に邱建新コーチと契約して、半年後の日本選手権で3年ぶりに優勝。そこから4連覇。世界でも中国選手以外にはほぼ負けなくなった。邱さんは中国代表だった実力に加え、ドイツのブンデスリーガで長く監督を務めていた。邱さんほど世界のトップ選手の技術を深く知っているコーチは当時日本にいなかった。練習内容は厳しかった。自分一人ならやめるところから限界を伸ばしてくれる、そういう指導でした」

 卓球は究極のメンタルスポーツと呼ばれる。

「あの狭い卓球台の中で、相手と常にじゃんけんしているような感覚。いかに相手の読みを外すか。卓球は、守っても勝てる競技。だからリスクを冒さず、守り勝とうとする選手もいる。その弱さを振り切って闘えるか。勝つ選手はリスクを背負う。バックサイド、フォアサイド、どっちに来るか? 賭けて、完璧に読み切って絶対にミスしない選手だけが勝つ。そこが卓球の面白さ、奥が深い。僕は19歳くらいで、世界の舞台でもある程度それがやれるようになった。

 大先輩の荻村伊智朗さんが『卓球は、100メートルを全力疾走しながらチェスをする競技』と言われた通りだと思います」

負けた夢は吉兆

 リオ五輪で水谷は男子団体で銀、男子シングルスで銅メダルを取り、男子への注目を高めた。そして、東京2020での金メダル。

「選手生活で最も印象的なのはやはり金メダルの瞬間です。夢をかなえた幸せな瞬間、28年間の集大成です。夢の中では何十回も見ていた。目が覚めて、ああ夢かと思う。あの時は、今回も夢じゃないか、本当だったらいいのになあ、そんな感じでふわふわしていた」

 全日本選手権など大会前にはよく夢を見た。優勝した夢も、負けた夢も。

「負けた夢を見た時の方が、いい結果が生まれることが多い。人生終わったなと思って目覚めると、あ、夢か、もう一回チャンスがあると。命拾いした感じで気が引き締まるからでしょうか」

 東京五輪の間は夢を見なかった。大会が始まる少し前にそういえば見たという。

「優勝する夢でした。でも確か団体戦で金メダルを取る夢。混合ダブルスの夢は見なかった」

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

「週刊新潮」2024年3月7日号 掲載