新谷仁美(36)はうつむき、涙を零(こぼ)した。

 彼女は「パリ五輪を目指さない」と公言していた。事実、昨秋のMGCに出場せず、今季エントリーしたのも五輪代表選考レースではない東京マラソンだった。

 コロナ禍で東京五輪の開催が危ぶまれると、「国民が反対するなら開催する必要はない」と発言して波紋を呼んだ。別の場では「無観客は、選手や応援する側にもマイナスでしかない」とも述べた。内心で開催を望みながら口を噤むアスリートが多い中、“変わり者”のレッテルを貼られた。その東京五輪。1万メートルに出場するも無観客の国立競技場で21位に沈む。新谷の五輪は終わった。

 その後、マラソンを志すも、五輪には目もくれなかった。目標は、日本記録更新――その一点に絞った。

“五輪”と“記録更新”の二兎を追うこともできたはずだ。現に1月の大阪国際女子マラソンに出場した前田穂南(27)は日本記録を更新し、かつパリ五輪切符もほぼ手中に収めている。ちなみに、このレースで新谷はペースメーカーを務めた。

東京マラソンならではの利点があったが…

 なぜ新谷は東京マラソンを選んだのか。それは、“記録”が出やすいコースだからだ。起伏が少なく、実際に過去2回、男子の日本記録が生まれている。

 彼女がよりどころとする“国民”“応援”の点でも長じていた。海外と違って国内の大会は、応援してくれる観客ががぜん多い。大都市東京での開催ならなおさらである。

 記録の点でいうと、もう一つ利点があった。

 ペースメーカーの存在だ。

 男女混合大会の東京マラソンは、男子選手がペースメーカーになれる。今回も女子のペースメーカーを男子選手が務めた。日本人なのも心強かっただろう。

 だが結果は残酷だった。

 3月3日、東京マラソン。日本人1位ながらも、記録は2時間21分50秒。前田の記録に3分近くも遅れた。

 ペースメーカーが遅すぎたせいだった。しかし、彼女はペースメーカーを責めず、自らのミスだと語った。

 ペースメーカーを務めたレースで日本記録が生まれ、日本記録を狙ったレースでペースメーカーに足を引っ張られる――何たる皮肉。

 だが、新谷はこう続けた。

「今後も、可能性があれば、持ち続けたい」

 そして静かに涙を拭いた。

「週刊新潮」2024年3月14日号 掲載