パリ・ダカールラリー、通称パリダカで日本人初の総合優勝を1997年に果たすなど、三菱自動車のサラリーマン時代から世界的なラリーストとして知られた篠塚建次郎さん。稲妻のような走りっぷりで「ライトニングケンジロウ」の異名でも親しまれた。

 東海大学在学中にラリーデビュー。その世界に引っ張り込んだのは同級生の砂原茂雄さんだ。ラリーについて「何が面白ぇんだ?」と訝っていた篠塚さんだが、砂原さんによると「最初は私のナビゲーターを務めていたが、次第にラリーの面白さにハマっていったんです」。砂原さんの誘いがなければ、後の“世界のケンジロウ”はいなかった。

裕次郎映画に憧れて

 当時意識したのが石原裕次郎主演の映画「栄光への5000キロ」(69年)だ。これが篠塚さんの「サファリラリーへの憧れを抱いた原点」(砂原さん)で、その思いが76年サファリラリーでの日本人初完走6位入賞につながった。

 71年、三菱自動車に入社。大学時代からのラリー仲間で、新設の宣伝部モータースポーツグループに篠塚さんとともに配属された同期入社の伊藤哲郎さんは「建次郎を入社させるためにつくられたセクション」と話す。71、72年は全日本ラリー選手権で2年連続シリーズチャンピオンとなった。

「土日のラリーに出て、月曜に上司に報告。模造紙にポスターのような手製の報告書を作成し、自分たちで掲示板に張っていた」(同)

ラリーに妥協はナシ

 いつも温厚な篠塚さんが、一度だけ伊藤さんに声を荒らげたことがある。ラリー車のテストのスタート前に「出ていけ!」と一言。ナビゲーターではない伊藤さんが何気なく助手席に座っていたためだ。「ラリーに関しては常に妥協を許さなかった」(伊藤さん)。

 81年の世界ラリー選手権ポルトガルラリーの後、活動を休止していた時期には「腹が出てブクブクのサラリーマンだった」(同)というが、86年のパリダカ参戦が決まるやいなや、「鍛え始めて1カ月でアスリート体形に戻した」(同)。まさにプロ魂。翌87年にパリダカ総合3位、91年の世界ラリー選手権第12戦・アイボリーコーストラリーでは日本人初優勝を果たすまでに。

 報知新聞記者として篠塚さんのパリダカ全戦を現地で取材した中島祥和さんは、「外国の車と比べて飛びぬけて速いわけではないが、走りはいつも堅実だった」と述懐。伊藤さんも「車のカタログを作る際は数字を1の位から逆に読み合わせていく独特のやり方で、建次郎は一度も校正ミスをしなかった」と思い返す。

 97年、パリダカ初の総合優勝前夜。「普段と違って話しかけられない感じが出ていた」と中島さん。それを乗り越えての栄冠だった。

三浦友和の姉と結婚

 プライベートでは87年、俳優・三浦友和さんの姉で、百恵さんの義姉にあたるひろ子さんと結婚。ひろ子さんは山梨県の清里でペンションを営むが、篠塚さんもラリー参戦時などを除いて「完璧にペンションの親父さんをこなしていた」(ひろ子さん)という。

 家の中で物の配置が少しでも変わるとすぐにぶつかる面も。ひろ子さんいわく「息子が“家の中でもハンドルを握らせたらぶつからないよ、きっと”と笑っていたくらいです」。

 3月18日、膵臓がんのため長野県諏訪市内の病院で死去。享年75。がんは5年前に見つかって手術したが、「篠塚建次郎はいくつになっても元気で生涯現役で走り続けているんだ」と言って病気を伏せたまま、昨年11月の「WRCフォーラムエイト・ラリージャパン」まで現役で活動を続けた。

 ひろ子さんによると、普段の運転では「道に迷わないし、必ず正しい方へ進む動物的な勘もすごかった」。

 一方で「平坦でごく普通の道だとつまらないらしく、ほとんど私が運転を代わっていました」。今は大空を疾駆する篠塚さんである。

「週刊新潮」2024年4月4日号 掲載