前編【元中日投手からイチゴ農家に転身した男の告白 高校・大学は全くの無名、独立リーグ時代に訪れた転機“考え抜いたプロの需要”】のつづき

 ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の今に迫る連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第8回は中日ドラゴンズで投手として活躍し、今はイチゴ農園を営む三ツ間卓也さん(31)。前編では、アマチュア時代からの夢だった「プロ野球選手になる」夢を叶えるまでの奮闘ぶりを伺いました。後編では、現役引退後、未経験だったイチゴ農家へ転身した理由を聞きます。(前後編の後編)

きっかけは息子のために始めたイチゴ作り

 育成枠で中日ドラゴンズに入団、わずか1年で支配下登録を勝ち取り、一軍の中継ぎとして77試合に登板した。球団初となる育成枠出身の勝利投手にもなった。しかし、プロの壁は厚く、故障にも見舞われ、三ツ間卓也のプロ生活は6年で幕を閉じた。2021年秋のことだった。すでに29歳になっていた三ツ間がこのとき選択したのが、イチゴ農家への転身という、誰も予想できない道だった。これにはその頃、新型コロナウイルスにより緊急事態宣言が発出されていたことが大きく関係しているという。

「コロナ禍の最初の頃、プロ野球選手がコロナになると写真付きで全国放送されていましたよね。だから外に出ることもできずにずっと自宅にいました。でも、まだ1歳半の息子は外に出たくて仕方がない。そこで、父親的な目線で言えば、“せめて外の空気だけでも吸わせてあげたい”という思いで、自宅のベランダで家庭菜園を始めることにしたんです」

 自宅のベランダにプランターを置いて、バラやプチトマト、オクラ、ナスなど、さまざまな植物を育て始めた。気がつけばあっという間にプランターは15個ほどに増え 、その中にはイチゴもあった。

「当時はまだあまり言葉もしゃべれなかった息子が、“パパのイチゴがおいしい”って言ってくれました。緊急事態宣言で気持ちがふさぎがちだった時期なので、余計にこの言葉は強く印象に残りました」

 戦力外通告を受けた後、三ツ間は「不動産業界の営業職を目指そう」と考えていた。小さい頃から図面や間取りを見ることが好きで、大学卒業後には不動産会社から内定をもらっていた。

「すでに子どももいましたから、やっぱり家族のことを考えて安定した職業に就くつもりでいました。そんな考えを奥さんに話すと、“自分を犠牲にしてまで、家族のために働かないで……”と言われました」

 思わぬ申し出に面食らった。

「そして奥さんから、“ずっと補欠だったあなたが努力をしてプロ野球選手になった経緯を私は知っている。人一倍ガッツがあって、好きなことならとことん取り組める人なんだから、この先も自分が夢中になれる仕事をしてほしい”と言われました。そこで提案されたのがイチゴ農家だったんです」

 まったく予想外の展開だった。息子のために家庭菜園に精を出している姿を見ていて、「イチゴ作りは夫に向いているのかも?」と考えていたというのだ。そして、この言葉が三ツ間の背中を力強く後押しすることになった。

「野球×イチゴ」というコンセプトのイチゴ農園を

 ガーデニング好きの母親と一緒にジャガイモやトマトを一緒に育てた経験はあった。コロナ禍における家庭菜園も楽しかった。何よりも、息子の「パパのイチゴはおいしい」という言葉が嬉しかった。

「奥さんの言葉を聞いて、“オレはまたチャレンジしてもいいんだ”という気持ちになりました。農業の経験はまったくなかったけど、もう一度、一からチャレンジできる喜びと同時に責任感を強く感じました。生計が成り立つまでは共働きで苦労を掛けることになるけど、“チャレンジするなら本気でやろう”と、このとき覚悟が芽生えた気がします」

 ここからの三ツ間の行動は早かった。真っ先に浮かんだのは「野球×イチゴ」というコンセプトのイチゴ農園だった。引退してしばらくすれば、自分がプロ野球選手だったことなど忘れられるだろう。まだ「元プロ野球選手」という肩書きが通用するうちに、新しいことを始めなければならない。「少しでも早くオープンしたい」という思いで、神奈川県にある、かながわ農業アカデミーへの入学を決めた。

「神奈川には縁もゆかりもありません(笑)。でも、関東には多くのプロ野球球団があります。野球ファンがアクセスしやすい場所で、ある程度の広さの土地があるところということで考えた結果、“横浜市の郊外に農園を開こう”と決めました。だから、かながわ農業アカデミーを選び、神奈川に引っ越したんです」

 このアカデミーで生産技術のイロハを勉強し、同時に経営ノウハウも学んだ。プロ野球選手になるために努力した日々がよみがえる。三ツ間は言う。「《元プロ野球選手》という肩書きは、誰もが手に入れられるものではない」と。だからこそ、この肩書きが通用する間に、次なる転身を図る必要があった。

「頑張らないとプロ野球選手にはなれない。《元プロ野球選手》という肩書きは、過去の自分が頑張ったことの証しです。だから僕は、胸を張ってこの肩書きを誇りたいです」

 アカデミーに在学しながら、同時進行で事業計画書を作成して銀行に融資を求めた。不動産業者を回ってビニールハウス用の農地を探し歩いた。さらに大学野球時代の知人のつてをたどってイチゴ作りの「師匠」を探し、イチゴ農家のリアルを学ぶことも忘れなかった。

「アカデミーに通っていた1年間は目まぐるしく過ごしました。平日は学校に通い、週末は生産者の下で学びました。農地探しのときには、《元プロ野球選手》という肩書きが悪い方に作用して、家賃を相場の20倍の値段で吹っ掛けられたこともありました(苦笑)。でも、幸いにして費用も工面できたし、300坪の土地も見つかって、無事にアカデミーを卒業することができました」

 2023年3月にかながわ農業アカデミーを卒業。その後食品衛生責任者を取得し、認定新規就農者資格も獲得した。着々と「その日」に向けての準備が整っていた。

5年以内にはシンガポール、ドバイへ出荷する

 そして24年1月27日、横浜市泉区に「三ツ間農園」をオープンした。プロ野球時代のファンはもちろん、SNSで三ツ間の活動を知った賛同者が開園までのサポートをしてくれた。開園までは毎朝5時に起床し、5時半には農園に着き、午前中に4回、さらに14時にも水をやり、17時に農薬を散布する。今では自動で水やりを行うようになったものの、開園と同時に雇用した正社員と2人で300坪のイチゴの世話をする日々。プロ野球時代からは考えられない毎日を過ごしている。

「3年以内には2店舗目を出して、5年以内には愛知県に出店するつもりです。なぜ愛知なのかというと、もちろんドラゴンズという強いブランドもあるんですけど、国際線が発着する中部国際空港セントレアが近いからです。イチゴというのはタイムリミットが短い農作物なので、出荷までの時間をなるべく短くしたい。そういう意味でも横浜から出荷するのではなく、愛知県で出店してセントレアから出荷したいんです」

 三ツ間は「国際線」と口にした。開園わずかにして、すでに海外進出を見据えているのである。その口調が、次第に熱を帯びてくる。

「シンガポール、ドバイへの直行便があるので、セントレア なんです。そうすれば農園で摘んだイチゴが1日半で向こうの店頭に並ぶそうです。メイドインジャパンのイチゴは人気がありますから、そこを次の目標にしています」

 野球とは完全に無縁の生活を過ごしているように見える三ツ間に「野球時代の経験が生きたことは?」と質問をする。

「自分次第でどうにでもなるという点は共通していると思います。ピッチャーならば、打たれるのも自分、抑えるのも自分。イチゴ作りも同じで、おいしいものを作るのも自分、失敗して無駄にしてしまうのも自分。人生のすべてをかけて頑張れば必ず何かが返ってくる。頑張らなければ何も返ってこない。その点も似ていると思いますね」

 開園以来、ほとんど休みなく働いているという三ツ間は、インタビューの最後に「野球時代よりも今の方が全然大変ですよ」と笑い、現在の心境を次のように述べた。

「野球は子どもの頃からやっていた上でプロに入りますよね。でも、イチゴの場合は完全に未経験ですからね。経験値ゼロからのプロ入り、それは本当に大変ですよ。その分、やりがいも大きいですけどね」

 日に焼けた肌に白い歯がまぶしい。丹念にイチゴの生育ぶりをチェックしている姿からは、心身ともに充実している様子がにじみ出ていた――。

(文中敬称略・前編【元中日投手からイチゴ農家に転身した男の告白 高校・大学は全くの無名、独立リーグ時代に訪れた転機“考え抜いたプロの需要”】のつづき)

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)ほか多数。

デイリー新潮編集部