マウンドにバットを投げつけて

 近年のNPBではほとんど見られなくなった大乱闘をテーマに、ファンの記憶に残る場面を振り返るGW企画、第2回は西武時代の清原和博が主役となった1989年9月23日のロッテ戦での“バット投げ事件”を紹介する。【久保田龍雄/ライター】

 1989年(平成元年)、リーグ5連覇を狙う西武は、近鉄、オリックスと三つ巴の混戦のなか、9月10日から7連勝して頭ひとつ抜け出し、この日の時点で2位・近鉄に1.5ゲーム差をつけていた。

 相手は3連敗中で元気のない5位・ロッテ。勢いで勝る西武は、4番・清原が推定130メートルの特大満塁弾を放つなど、3回を終わって7対0と大きくリードした。

 だが、4回に事件が起きる。2死一、二塁で、3打席目に立った清原に対し、平沼定晴の初球、140キロ内角直球が左肘を直撃した。

「投げる前から、狙っているような感じやった」と故意死球を確信した清原は、直後、信じられないような行動に出る。

 手にしていたバットをいきなりマウンドに向かって投げつけたのだ。跳ね返ったバットのグリップの部分が平沼の左太ももに当たった。

「振り向いた瞬間、ロッテベンチだったんですよ」

 平沼が怒りをあらわにして突進すると、清原も走り寄り、本塁とマウンドの中間で強烈なヒップアタックをお見舞いした。

 1回転して吹っ飛ばされた平沼は、体当たりされた際に左肩鎖部を痛め、全治2週間と診断された。問題の内角球については、「(前の打席で本塁打を)打たれているし、内角のストレートを思い切り投げた。清原は踏み込んできたし、避けられない球ではない。もちろんデッドボールなんて投げる気はなかった」と語っている。

 ここまでは威勢の良かった清原だったが、直後、一目散に自軍ベンチに向かってスタコラサッサと逃げ出した。

「あのとき何が怖かったって。振り向いた瞬間、ロッテベンチだったんですよ。全員こっちに走ってきますね。逃げ回るのも格好悪いじゃないですか。早く誰か捕まえてくれって」(2022年1月22日に公開された自身のユーチューブチャンネルより抜粋)。

 間もなく清原は、本塁付近で田野倉利行コーチにタックルされ、“ランボー”の異名を取る怪力助っ人のディアズにヘッドロックをかけられ、押し倒された。両軍ナインが入り乱れるラグビーも顔負けの肉弾戦のなか、辻発彦が下敷きになりながらも必死にディアズを抑え込んでいた。乱闘の輪から救出された清原は、スコアラーに抱えられるようにしてベンチに戻った。

清原はなぜこれほど怒ったのか?

 審判部長の斎田忠利二塁塁審が「暴力行為で清原選手を退場とします」と宣告し、ようやく試合再開となったが、同部長は「バットを投げつけたのは、27年の審判生活でも見たことがない」と証言している。

 平沼も負傷交代の形で井部康二にマウンドを譲ったが、興奮状態のまま、グラブをスタンドに投げつけた。試合後も怒りが収まらない平沼は、西武の選手通用口で清原を待ち伏せするつもりだったが、先輩に止められて断念したという。

 連盟は異例の早さで、その日のうちに清原に制裁金30万円と出場停止2日間のペナルティを科した。連続試合出場記録も「490」でストップ。チームが優勝争いを演じている最中に謹慎することになった清原は「申し訳ないの一言で、チームにもファンにもみんなに迷惑をかけた。カッとして、気がついたらバットを投げていた。その行為に一番心が痛み、反省しています。僕の連続試合なんかより、大事なときに休んで本当に申し訳ない」としょげ返った。

 それでは、清原はなぜこれほどまでに怒ったのか? キーワードとなるのは、左肘だ。

 8月3日のダイエー戦で山内孝徳から左肘に死球を受け、内出血したのが、そもそもの始まり。同19日のロッテ戦でも、吉岡知毅から再度左肘に死球を受け、患部が隆起したように膨れ上がった。さらに9月7日のオリックス戦でも、初回の1打席目に今井雄太朗から左肘に死球。痛みを訴え、3回の打席後にベンチに下がっていた。翌日の釧路遠征では、夜も外出せずに一人宿舎に残り。一晩中患部に冷湿布をあてがっていた。

「あの頃のファンにも『熱いもの』があった」

 この時点でリーグトップの14死球を記録していた清原は、ロッテ戦の前に「今度危ないボールを投げられたり当てられたりしたら、先輩でも後輩でもぶん殴ってやる」と宣言していた。

 実は、平沼も試合前に清原の新聞談話を読んでいたが、「あんな談話なんかでビビったと思われたらいい恥ですから」と立場上逃げるわけにいかず、思い切って内角球で勝負した。それがよりによって、泣きどころの左肘を直撃したのは、皮肉な結果としか言いようがない。

 その後も、騒動の余波は続く。当時は選手名鑑に自宅の住所も掲載されていたことから。平沼の自宅にカミソリ入りの封書が届いたり、自宅の窓ガラスを割る者もいた。

 だが、平沼は「あの頃のファンにも『熱いもの』があったのではないでしょうかね。わざわざ家を探して石を投げつけるなんて、西武や清原を心から愛してのことでしょうね。そう思うと腹も立ちませんでした」とその心情にも理解を示し、「今のファンは、そこまで熱くなりませんよね。思えば選手もファンも冷静になってしまった。僕はその辺がさみしく感じます。もちろん暴力や暴動を肯定するんじゃありませんよ。たんたんとした野球はプロ野球じゃないと思うんですが、違いますか」(『プロ野球乱闘読本』OAK‐MKOOK)と、30年以上前の“熱かった時代”をしみじみ懐古している。

 一方、清原は23年間の現役生活を通じて死球禍に苦しみつづけ、NPB歴代トップの通算196死球を記録。西武入り以来の打撃の師で、“バット投げ事件”の4カ月前に不祥事でコーチを解任されていた土井正博氏は「デッドボールの避け方を教えられなかった」ことを今でも悔やんでいるという。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

デイリー新潮編集部