撮影:山本美里

山本美里さんは、「医療的ケア児」として東京都の特別支援学校に通う息子、瑞樹くん(15)を取り巻く環境の理不尽さを写真にぶつけてきた。ストレートに怒りを表現するのではなく、風刺画のように面白おかしく自分自身や周囲の人々を演出して写した。

医療的ケア児とは、日常的にたんの吸引や経管栄養、人工呼吸器などを必要としている子どもである。厚生労働省によると、全国に推定2万180人(2021年)の医療的ケア児がいる。

妊娠中に先天性メガロウイルスにり患した瑞樹くんは肺の状態が悪く、生まれたその日から鼻から酸素や栄養を送り込む医療的ケアが始まった。

輸入雑貨を扱う会社に勤めていた山本さんは瑞樹くんの出産後、仕事を辞め、育児と介護を担ってきた。

「でも、小学生になれば、特別支援学校のスクールバスに乗せてもらえるし、『学校に行ってらっしゃい』と、言えるようになると思っていた」

ところが、入学前の就学相談で、コーディネーターの先生から、こう言われた。

「アンビューバック(心肺蘇生に使われる医療器具)の使用は東京都の定める医療的ケアには含まれていません。でも、お母さんが付き添ってくれるのなら、息子さんの通学を許可できます」

撮影:山本美里

■「黒子」ではなく「透明人間」

入学後、山本さんの付き添いの日々が始まった。朝、瑞樹くんと一緒に自家用車で学校に行き、そのまま下校までずっと教室の隅や保護者控室で過ごす生活。

さらに、教員からは「お母さんは気配を消してください」と言われた。学校は、子どもたちの自立の場である、という理由からだった。

他の付き添いの保護者からは「黒子に徹するんだよね」と言われたが、違和感を覚えた。

「テレビ番組で黒子が出てくるシーンがあるじゃないですか。ステージの上で黒子はすごく活躍している。ところが私はただ座っているだけで、全然活躍していない。それって、黒子じゃない、と思った」

給食の時間になると、子どもたちや先生には食事が配膳される。しかし、付き添いの保護者は給食の対象ではないので、山本さんのところには誰も来ない。

「私がそこにいても、周囲からは見えていないかも、と思った。つまり、私は『黒子』じゃなくて、『透明人間』なんだ、と思った」

撮影:山本美里

■自分自身をテーマに

瑞樹くんが入学したころ、山本さんは「何か社会に対してできることはないか」と思い、保護猫の預かりボランティアを始めた。それが本格的に写真を撮り始めるきっかけになった。

里親を探すために猫の写真を撮影してSNSにアップすると、写真の面白さに目覚めた。

猫と瑞樹くんを一緒に写すと、海外から「いい写真だ」「彼は今日も元気なのか」と、コメントがついた。障害を深刻なことととらえず、「普通の子ども」として伝わっていることを感じた。

「私は子どもの将来とか、他人の目とかをすごく気にしながら生きてきたけれど、『えっ、それでいいんだ』と思った。そんな価値観の人たちと出会えたのも写真のおかげです」

17年、山本さんは本格的に写真を学ぶため、京都芸術大学の通信教育部に入学。付き添いをしながら課題を撮るため、特別支援学校から校内で撮る許可を得た。

山本さんは「医療的ケア児」をテーマに課題に取り組んだ。

ところが、それをリポートにまとめて大学に提出すると、「この写真は、障害がある子どもが育つ過程を撮ったものになっている」と指摘された。そして、山本さん自身のセルフポートレートを撮ることを勧められた。

「リポートを読むと、あなたは自分の置かれた状況にすごく不満を持っているから、そちらを主体に撮ったほうが面白くなるわよ、とアドバイスされた。それで、自分自身をテーマに撮ることにした」

撮影:山本美里

■教員も「この状況は変わらないと」

山本さんが目指したのは自身が置かれた状況を自虐ネタにして笑いを誘う写真だった。

「子どものころ、新聞の日曜版に載っていた風刺画を見るのがすごく好きだったんです。辛辣なことを描いているけれど、面白い。怖さもある。作品をつくるなら、そんなふうに写したかった。面白おかしく撮るけれど、相手の急所を突いていく写真です」

やがて作品は学校校関係者を巻き込んだものなっていく。しかし当初、山本さんは学校と対立していたという。それは山本さん個人の問題ではなく、保護者の付き添いがなければ医療的ケア児が通学できないケースは全国にあった。

「でも、学校の人たちと話をしていくと、この状況は変わらなきゃいけないよね、と個人的な思いを打ち明けてくれる人もいた。それに、ずっと付き添いをしていると、先生たちと普通の話をするんですよ。『あそこのパン屋はおいしいね』とか。そうやって人間関係を築いていった」

撮影:山本美里

とはいっても、作品に学校関係者に登場してもらうには、校長の許可がいる。山本さんは直談判した。

「ものすごくいい写真集を作って、私は保護者控室から1000万円プレーヤーになります。なので、許可してくれなかったら日本の損失です。絶対に許可すべきです、みたいなすごい演説をした」

後日談だが、山本さんは京都芸大を卒業したころ都内の小さなギャラリーで作品展を開催した。すると、医療的ケア児の母親でもある野田聖子衆院議員が訪れた。会場に置かれていた自費出版の写真集を購入し、医療的ケア児の支援を検討する「永田町子ども未来会議」のメンバーに配った。

■給食の職員や校長にも

山本さんの作品づくりは絵コンテを描くことから始まる。1つのシーンでも、顔の写るもの、写らないものなど、数パターンを描き、撮影に協力してほしい先生に手紙を出した。

「先生たちの承諾を得て、撮影場所に集まってもらい、『もうちょっとこうしようか』と、調整して写した。先生たちは仕事の合間にきてもらうので、10分で撮る、みたいな感じでした」

給食の職員にも声をかけた。

「あの白いユニホームがすごく気になっていたんです。それで、廊下ですれ違ったときに、写真に写ってもらえませんか、とお願いした。最終的には給食部を通して撮影を依頼しました」

校長が写ったシーンもある。それは校長室から廊下にいる山本さんと瑞樹くんを写したときのものだ。

「学校は、気配を消せって言うけれど、先生がカメラで写真を撮れば、私の姿がばっちり写る。見えないふりをしているけれど、本当は見えているよね、っていうのをやりたくて、撮ったんです」

撮影:山本美里

■「自分の意思」があった

写真を撮り始めたころ、「自分の人生、いろいろうまくいかないな」と思っていた。

でも、写真を撮影して、1日の終わりにそれを見返すと、「自分が思っているほど、自分の人生は悪くないかも」と思った。

子どもが生まれてからは必要に迫られて何かをすることが多かった。でも、ファインダーを覗き、シャッターを切るときは「自分の意思」があることを実感した。

「自分がそこにいて、感じたこと、目にしたことを写真は見せてくれた。今よりも窮屈で苦しい時代だったけれど、こういうことは楽しかったな、よかったなとか。写真を見返すことが励みになった」

自分の意思で何かをすれば、それが残る。山本さんの場合、たまたま写真だった。

「小さなことでもいいから、みんなそれぞれ、何かをやるといいですね」

山本さんはしみじみと語った。

(アサヒカメラ・米倉昭仁)