「シンプルでいい」が夏目の口癖だ。みんなが働けて、みんなが笑える、そんな社会をチョコレートで実現する(写真:今村拓馬)

 夏目浩次が率いる「久遠チョコレート」は、「アムール・デュ・ショコラ」でも選ばれるほど、人気のチョコレートだ。従業員のうち、6割が障害者。チョコレートは失敗しても温めたら作り直せるため、それぞれが合った仕事で人気を支える。障害者が働いても、月額1万円しかもらえないと知った憤りが、夏目の原点。使える人と、使えない人とを区別せず、支え合える社会にしたい。

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「それでは、本祭典を代表するシェフたちの登場です!」

 名古屋駅に直結するジェイアール名古屋タカシマヤ。バレンタインデーまで1カ月を切ったこの日、日本最大級のショコラの祭典「2024アムール・デュ・ショコラ」オープニングセレモニーのひな壇に夏目浩次(なつめひろつぐ・46)は立っていた。全国から集まった150ブランドのうち、29人の選ばれしシェフたちと並んだ姿は誇らしげでもあり、緊張しているようでもある。見知ったテレビクルーを見つけて、照れくさそうに大きくニカッと笑った。あ、いつもの夏目だ。

 夏目が率いる「久遠チョコレート」の本店は、愛知県豊橋市の豊橋駅からほど近いアーケード商店街の一角にある。店に入るとチョコの甘い香りとともに、主力商品のQUONテリーヌがずらりと並んで圧巻だ。その種類は実に170種以上。フリーズドライしたいちごが甘酸っぱい「ベリーベリー」や、粗めに砕いたほうじ茶が香ばしい「宇治石臼ほうじ茶」、コロンビア54%チョコとオレンジピールが大人っぽい「ノアール」などなど。ミントブルーのルックスが魅力的な「チョコチップ&チョコミント」はドミニカ共和国50%チョコを使用し、爽やかな余韻が漂う。フレーバーに合わせて使用するチョコレートの産地も変える本格派。どれひとつとして同じ味はない。

 それを作っている人々もまた個性的だ。従業員700人のうち6割以上が身体、精神、発達障害のある人たちだ。ほか子育てや介護でフルタイムは働けない女性や不登校や引きこもり経験者、LGBTQの人などを積極的に雇用している。

重度の障害のある人たちが働くパウダーラボ。材料を切る、混ぜる、砕くなどそれぞれが適材適所で能力を開花させるラボの雰囲気はあたたかく、笑顔に溢れている。(写真:今村拓馬)

■内向的だが負けず嫌い 起きたくない朝もある

 もともと夏目はチョコレートの専門家ではない。大学でバリアフリー建築と出合い、当時「障害者の全国平均月給が1万円」という安さを知って衝撃を受け、状況を変えようと行動を始めたのだ。2003年に前身となるパン屋をオープン、さまざまな失敗を経て、チョコレートとの出合いがすべてを変えた。14年にスタートした「久遠チョコレート」はいまや全国60拠点、年商18億円にまで成長している。だが14年当時を知る統括マネージャーの山本幸代(54)は「逆風の時代は長かった」と振り返る。

「風向きが変わったのは本当にここ4、5年です。それまでは『障害者を利用して商売をしている、きれい事だ』とか、福祉関係の重鎮たちからは『助成金のなかでやればいい、何を一人で騒いでいるんだ』と直接言われたこともありました。でも夏目さんは負けず嫌いの塊ですから、怒りのベクトルが『やってやる!』につながる。向こうが思っている以上の答えを出して『ほら、想像していたのと違うでしょ?』って。そういう人なんです」

170種以上あるQUONテリーヌ(写真:今村拓馬)

 当の夏目は自身を「内向的で気が小さいんです」と分析して苦笑いする。

「そのくせ負けず嫌いで頑固。スイッチが入ると突っ込んでいっちゃうんですけど、あとで『ああ〜、またやっちゃった!』ってなる。起きたくない朝もいっぱいあります(笑)」

 自分はいたって普通の人間。なにも特別なことをしているわけじゃない。だからみんなにもこれが普通にできることなんだと気づいてほしい。そう夏目は繰り返す。しかしここまでの道のりは平坦ではなかったはずだ。障害のある家族がいたわけでも、障害者と身近に接してきたわけでもない。いったいなにが夏目を動かしたのだろう。

 夏目は1977年、豊橋市に生まれた。3歳上の兄がいる。子どものころから頑固で負けず嫌い。いろいろアイデアを考えるのが好きで、小4のとき担任から「発明家で賞」を授与されている。

豊橋市内のスーパーから出る野菜くずなどで鶏を育て、自社の卵をまかなうことを計画中だ。講演を通じて親交のある九州産業大学の学生と鶏舎を見学する。(写真:今村拓馬)

 いまにつながるかもしれない体験は、保育園時代に起こった。

 夏目の父・忠男(85)は豊橋市の貧しい10人きょうだいの家庭に生まれ、中学卒業後すぐ上京し、縁あって国会議員の秘書を務めた。だが突然、「事務所の金を使い込んだ」という理由でクビを切られた。父によると大卒の秘書が増えるなか、中卒では格好が付かないというのが真の理由だったらしい。もちろん事実無根だが、父は黙って従うしかなかった。そんなある朝、夏目が保育園に行くと保育士の態度が違った。「あの親の子」という空気を感じ、露骨ないじめを受けるようになった。

「遠足に行って芝生の上でお弁当を食べていると、3、4人の保育士が前に立って見下ろしながら『おい、弁当まずそうだなあ』と言うんです。毎日、保育園で吐いていました。子どもだから反論できなかったけど、振り返るとこのときから理不尽なことや声なき声に敏感になったのかもしれない」

 その後、父は市議会議員に立候補し、2度目の挑戦で当選。以後、6期24年も務めることになる。夏目を愛情込めて「小僧」と呼ぶ忠男も言う。

「いまに見とれよ、という気持ちがありましたね。それを見とったんじゃないかな、小僧はね」

 負けん気の強さは父ゆずりだと夏目も認める。中学時代、背が小さいことでからかわれても「なにくそ」と思ってきた。が、決して正義感溢(あふ)れるヒーローなどではない。小2のとき障害のあるクラスメートをいじめる側に加担したことをいまも後悔している。小6のときひとりぼっちでいた転校生に、自分から声をかけにいく勇気はなかった。

 だが、大人には反旗を翻した。中1のとき音楽教師の怒り方を「それはおかしいと思う」と指摘し、以後3年間、通信簿に1をつけられた。ほかの教師に「内申点が足りず志望高校を受けられないから先生に謝ってこい」と言われても「本番で受かりますから」と突っぱね、見事に合格した。

ジェイアール名古屋タカシマヤ「2024アムール・デュ・ショコラ」で有名シェフたちとひな壇に並んだ。(写真:今村拓馬)

■始めたパン屋は先が見えず 準備した粉をぶちまけた

 特に目的も定めず進学した大学の英語の授業で「ノーマライゼーション」という言葉に出合う。フラットなことが当たり前で、人と人に垣根はないという考え方に目が開いた。そんな社会を実現するため「政治家になろう」という思いが芽生えた。大学を卒業して信用金庫に就職したのも地元での人脈づくりのためだった。だが、どうも感触が違う。社会の大きな課題に取り組むよりも、地域の祭りや消防団に参加したり、地元の道路にガードレールを作ったりすることが求められる。大事なことだが、夏目には大きなビジョンがあるようには見えなかった。政治家の道はそうそうに諦めた。飽きっぽい自分にほとほと嫌気がさした。

 信金も辞め、大学院に戻ってバリアフリーをテーマにし、障害のある人たちと関わるようになる。そんなときに出合ったのが『小倉昌男の福祉革命─障害者「月給1万円」からの脱出』という書籍だ。クロネコヤマトの生みの親である小倉は障害者が普通に働き稼ぐことができる場所を作ろうと「スワンベーカリー」を立ち上げていた。夏目は衝撃を受けた。

「自分のやっていたことはなんて薄っぺらかったんだろうと気づいたんです。車椅子ユーザーと『駅のどこで迷うか』などを調べて論文を書いていたけれど、そもそも月給1万円では駅に遊びに来ることもできないじゃないかと」

妻・安矢子と子どもたちと。休みの日は家族で旅行に行くことも多い(写真:今村拓馬)

 スイッチが入ると、もう止まらない。小倉に「自分もやりたい」と手紙を書き、地元の福祉助産施設を見学して「工賃はいくらですか」「なぜ月給1万円なのですか」と質問し、露骨に嫌がられた。「自分たちもこれではいけないと思っている」という人も少数いた。だが大半は「仕方ない」「福祉にお金を持ち込まないでくれ」という対応だった。現場の人を責めたいわけではない。仕方がない、ですませる社会の空気に納得できなかった。

 ついに小倉と東京で対面が叶(かな)った。「スワンベーカリーをやらせてください」と頭を下げたが、もらったのはただ一言「帰りなさい」。面談は数秒で終わった。いま思えば「甘いものじゃない」という戒めだったのだろう。が、帰りの新幹線で「これからどうしよう」と頭を抱えた。道はなくなったのか? いや、そうじゃない。ならば自分でやってやる! 負けん気に火がついた。

父・忠男から秘書時代の話を聞いたのはほんの数年前だ。「世の中はどうしても強い人の声を聞く。声なきものの声を聞かなければいけないと改めて思いました」(写真:今村拓馬)

 障害者に最低賃金を払うパン屋を開きたい、と協力企業を探した。門前払いも多いなか、手を差し伸べてくれたのが「敷島製パン」(名古屋市)。パン製造のノウハウを教わり、知的障害のあるスタッフ3人を含む5人を雇用し、2003年に豊橋市の商店街にパン屋をオープンした。

 が、大きな試練が待ち受けていた。

 夏目安矢子(46)は信金時代に夏目と出会い、結婚。おなかに第1子を宿しながらパン屋を手伝うことになった。「とにかく大変だった」と振り返る。朝3時から仕込みをしてパンを焼いても、最後の最後で焦がしてしまい全てがダメになることもしょっちゅう。高温のオーブンでのやけども絶えない。売り上げが伸びなくても約束した賃金を支払い、人件費も重くのしかかった。あっという間に借金が1千万円を超えた。それでも投げ出すわけにはいかなかったと安矢子は言う。

「うちの子も働かせてほしい、といってくださる方が多くいらっしゃったんです。まだ20代だった私たちを信頼してくれる方たちがいる。一度始めたことを、やめるわけにはいかなかった」

(文中敬称略)(文・中村千晶)

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