ザンダー・シャウフェレのメジャー初制覇で幕を閉じた今年の全米プロゴルフ選手権。悲願を達成するまでのバックナインの決然たる戦いぶりは感動を生んだが、ここに至る道のりは決して平坦ではなかった。

18ホール持つのか心配になるほどの慎重な立ち上がり

◆米国男子プロゴルフ メジャー第2戦<全米プロゴルフ選手権 4月16〜19日 バルハラGC(ケンタッキー州) 7609ヤード・パー71>

 全米プロ最終日を首位タイで迎え、悲願のメジャー初優勝を懸けてティーオフしたザンダー・シャウフェレは、出だしから、とても慎重で丁寧なゴルフをしていた。

キャディーのオースティン・カイザーと固いハグを交わすザンダー・シャウフェレ 写真:Getty Images
キャディーのオースティン・カイザーと固いハグを交わすザンダー・シャウフェレ 写真:Getty Images

 距離を確認し、クラブを選び、ターゲットを見据えてセットアップに入り、自分自身の呼吸が整っていることを確認し、そして思い描いたショットと1ミリも違わぬよう打ってみせると言っているかのように、その様子は、とても慎重で丁寧だった。

「絶対に諦めない。絶対に勝つ」

 そんなシャウフェレの心の声が聞こえてくるかのようだった。だが、あまりにも慎重で丁寧だったため、果たして彼の気力は最後まで持ちこたえられるのだろうかと、少々心配になるほどだった。

 1番をバーディーで発進し、単独首位に浮上したシャウフェレは、4番でもバーディーを奪い、2位との差を2打へ広げた。

 しかし、5番ではファーストパットがカップに届かず、せっかくのバーディーチャンスを逃した。6番ではグリーンを捉え損ね、パターで寄せようとした第3打はミスヒットして大ショート。だが、そこからしっかりパーをセーブしたとき、シャウフェレは「よし、イケる!」と勝利を予感したという。

「あの6番がビッグモーメントだった」

 言うなれば、それはシャウフェレが秘かに感じ取ったサンデーアフタヌーンの勝利への心の転機だった。

 そこから先は、序盤は慎重すぎるのではないかと感じられたシャウフェレの動作から妙な固さが消え、生気と強さが漂い始めた。

 7番、9番でさらなるバーディー獲得。フェアウェイバンカーにつかまった10番パー5ではボギーを喫したが、ネバー・ギブアップの強い思いが11番と12番の連続バーディーを呼び込んだ。

 一時はビクトル・ホブランに並ばれ、終盤はブライソン・デシャンボーに追いつかれた。そして72ホール目を迎えたシャウフェレは、通算20アンダーで先にホールアウトしていたデシャンボーと首位に並んでいた。

 18番はパー5。バーディーやイーグルが続出していた“イージーホール”だったが、「バーディーなら優勝、パーならプレーオフ」という状況で臨んだシャウフェレの18番は、気持ちの上では“最難関ホール”と化していたことだろう。

 ティーショットはフェアウェイバンカーの縁に止まり、セカンドショットの足場は砂の中だった。それでもグリーン手前へ運び、第3打はチップショットでピン1メートル半へうまく寄せた。

「あと5フィート(約1.5メートル)で、メジャー初タイトルに届きます」

 米CBS局のアナウンサーは興奮気味にそう叫んだが、シャウフェレは感情を一切表さず、ポーカーフェースのまま、運命のバーディーパットに挑んだ。

 そして、ボールはカップの内側をほぼ半周した後、カップの「バックドア」からコロリと沈んだ。

 万歳するように両手を挙げて、勝利のガッツポーズ。シャウフェレの頬がようやく緩み、この日、初めて、彼は笑顔を見せた。

スピースやJTら同期と比較され…

 米TV局のアナウンサーが叫んだように、確かに最後の最後は「あと5フィート」だったが、振り返れば、シャウフェレのメジャー初優勝までの道程は、ずいぶん長い旅だった。

 カリフォルニア州サンディエゴ近郊のラホーヤで生まれ育ち、サンディエゴ州立大学を経て2015年にプロ転向したシャウフェレの存在が、全米、そして世界に知れ渡ったのは、彼がシーズン最終戦のツアー選手権を制して通算2勝目を挙げた17年のことだった。

 ビッグな勝利を収めた息子の姿を、目を細めながら見守っていたのは、ドイツとフランスの血が流れる父親ステファン、そして台湾出身で日本育ちの母親ピンウェイだった。

 父親ステファンは、かつてデカスロン(10種競技)の選手として五輪出場を目指していたアスリートだった。だが、交通事故で負傷し、志半ばで夢を断念。その分、息子に想いを託し、シャウフェレのコーチとして常に一緒に転戦していた。

 母親ピンウェイも大半の試合に同行し、息子の世話役として、応援団として、力を尽くしてきた。

 シャウフェレはジョーダン・スピースやジャスティン・トーマスらと同じ11年にハイスクールを卒業した「同期」で、「クラス・オブ・2011」と呼ばれ、何かにつけて比較されていた。

 スピースらがメジャーチャンピオンとなって眩しいスポットライトを浴びた姿を傍目にして、シャウフェレも奮闘し、18年、19年、22年に次々に勝利を重ねて通算7勝を挙げた。21年東京五輪では金メダルを獲得し、父ステファンを号泣させた。

 だが、メジャー大会では、なかなか勝利を挙げられないまま、7年半の歳月が流れた。

 そして、22年7月のジェネシス・スコティッシュオープン以降は、メジャー大会のみならず、レギュラー大会でも勝てない日々を過ごしてきた。

 トップ10入りは19回。3日目を終えて首位に立ったことは8回もあったが、勝利につなげることができたのは、わずか2回と勝率は低く、かつては「メジャー優勝は時間の問題」と期待されたシャウフェレは、いつしか「勝てそうで勝てない」「詰めが甘い」と言われるようになっていた。

奇抜な指導法で有名なクリス・コモに師事

 今年からシャウフェレは父ステファンとは別にスイングコーチを付け、クリス・コモの指導を受け始めた。コモと言えば、その昔、タイガー・ウッズの一時期のスイングコーチとなり、奇抜な指導法で世界を驚かせた「あのコモ」である。

 米メディアの中には、シャウフェレのスイングを知り尽くしている父親ステファンではなく、「あのコモ」の指導を受けることは「危険すぎる」と首を傾げていた記者は少なくなかった。

 だが、自分自身の選択と判断を信じ、我が道を進み始めたシャウフェレの今季の調子は目に見えて上昇。先週のウェルズファーゴ選手権では2年ぶりの復活優勝に迫った。しかし、ゾーンに入ったローリー・マキロイに大逆転され、またしても悔しい敗北を喫したばかりだった。

「今週は、先週の続きのつもりでバルハラに来た」

 そして、ようやく勝利したシャウフェレだったが、そのバルハラに両親の姿はなく、父ステファンはハワイ、母ピンウェイはサンディエゴの自宅でTV観戦。シャウフェレのそばにいたのは、大学時代からの恋人で21年に結婚した愛妻マヤや友人たちだった。

 メジャー大会で勝てなかった歳月は、そんなふうにシャウフェレの人生や環境がさまざまな変化を遂げるほど長い日々だった。

 しかし、この日、全米プロを制し、ついにメジャータイトルを手に入れたシャウフェレは、優勝カップのワナメーカートロフィーを手にした途端、「ヘビーだ(重いね)」と小さな声を上げ、その重みをひしひしと味わっていた。

「とてもいい気分だ。とても甘美な味わいだ」

 そして、マイクを向けられたシャウフェレは「父ステファンは生涯、僕のコーチです」と語り、バルハラに姿がなかった両親への感謝の念を強めていた。

「絶対に諦めない。絶対に勝つ」と念じ続けたシャウフェレの想いは勝利の女神にようやく届き、長く重い日々が明けたシャウフェレの表情は、最高に眩しく輝いた。

文・舩越園子ゴルフジャーナリスト/武蔵丘短期大学客員教授。東京都出身。百貨店、広告代理店に勤務後、1989年にフリーライターとして独立。1993年に渡米。在米ゴルフジャーナリストとして25年間、現地で取材を続け、日本の数多くのメディアから記事やコラムを発信し続けてきた。2019年から拠点を日本へ移し、執筆活動のほか、講演やTV・ラジオにも活躍の場を広げている。

舩越園子(ゴルフジャーナリスト)