<前編のあらすじ>

瑞穂(32歳)と雅彦(34歳)は事実婚夫婦。瑞穂が予期せぬ妊娠を告げると「俺は子供は欲しくないよ。産むっていうなら、一緒には暮らすのは難しいかな」という答えが返ってきた。瑞穂は子供がほしい気持ちがあったが、夫は否定的なため、2人は子供を持つことに対する話し合いを避けてきたのだ。夫の態度は変わらず、夫婦の会話はすっかり無くなってしまった。そして瑞穂は「夫が賛成してくれなくても、夫婦生活が終わりになっても子供を産もう」と考えていた……。

 

マイホームへの招待

会話のなくなった夫婦にとって、一緒に出掛けることは苦痛でしかない。そんなイベントはできる限り避けたいものだが、そうもいかなくなってしまった。共通の知人が郊外にマイホームを建て、そこに招待されていたのだった。そして、夫婦そろってそのことを前日まで忘れていた。子供を産むか産まないかで、それどころではなかったのだ。

決してドタキャンしていいような相手ではない。瑞穂の大学時代の先輩で、現在は編集プロダクションを経営している安西という人なのだが、瑞穂は安西から仕事をもらっているし、夫も仕事で付き合いがあった。そんな人からの招待を当日になって急に断れるわけがない。

瑞穂はひどく面倒な気持ちだった。妊娠をめぐって意見が対立して以来、夫と長時間いると気まずさを感じるようになっていた。

1時間ほど電車に乗り、郊外にある安西のマイホームへと向かった。電車の中で、夫婦はほとんど口をきかなかった。郊外とはいえ駅から程近く、そこまで不便な場所ではないのが救いだった。安西の家は美しいクリーム色の外壁で、新築ながら落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

夢見ていた家族のかたち

「いらっしゃい」

雅彦と瑞穂を安西の笑顔が出迎えてくれた。

「きれいなおうちですね。お邪魔します」

瑞穂はそう言いながら手土産を安西に差し出した。近所に新しくできた洋菓子店があり、そこでクッキーの詰め合わせを急いで買ったのだった。前日になるまで新居訪問のことを忘れていたので、これが精いっぱいだった。

リビングに入ると、奥さんとまだ小さな男の子がソファに座っていた。雅彦と瑞穂は奥さんに会ったことはあったが、安西の子供とは初対面だった。

「ほら、ちゃんとあいさつしなさい」

父親に促され、男の子は楽しそうな笑顔を浮かべながら「こんにちわ」とあいさつをしてくれた。どうやら、あまり人見知りをしないようだ。

「こんにちわ、いま何歳なの?」

「5歳です」

「お名前はなんていうの?」

「名前は、龍彦」

「ちゃんとあいさつできて偉いね」

瑞穂が子供と話しているあいだ、夫は安西と仕事の話をしていた。子供の相手は瑞穂にさせておく算段なのだろう。

しかし、5歳の龍彦は「名前が似てて面白い」となぜか雅彦に懐(なつ)いてしまった。

「こいつは幼稚園でも男の先生と遊ぶのが好きなんですよ」

安西はそう言って笑っている。夫は子供が好きではないはずだが、新居に招待してもらっているのに遊ぶのを拒否するわけにもいかない。龍彦を膝に乗せた夫は困惑したような表情をしている。

郊外の家なのでそれなりに広い庭もあり、遊ぶためのスペースは十分だった。天気が良いということもあって、夫は龍彦とサッカーボールで遊ぶことになった。高校までサッカーをしていた夫は、少し難易度の高いドリブル技を龍彦に披露していた。

「わあ! すごい!」

龍彦は目を真ん丸にして驚いている。5歳の子供からしてみれば、このドリブル技はマジックのように見えるのかもしれない。自分のサッカーを褒められ、夫もまんざらではない様子だった。

「ほら、俺からボールを取ってみなよ」

夫が挑発すると、龍彦は全力でボールを奪いにいっていた。しかし、それなりにレベルの高いサッカー部でレギュラーだった夫は龍彦を難なくかわしてしまう。

「上手じゃん! でも、俺の方がまだ上かな」

そう言いながらも、わざと龍彦にボールを取らせてやる。ボールを奪った龍彦は「やったあ!」と喜びの声を上げた。安西夫妻は、そんな息子の様子を幸せそうに見つめている。そこには、瑞穂が夢見ている家族の形があった。

2人の決断

安西のマイホームを訪問した次の日の午後「ちょっといい?」と夫に話しかけてみた。こうやって夫に話しかけるのは何日ぶりだろうか。

「昨日、楽しそうだったね」

「ん? 楽しそうってなにが?」

「安西さんの子供と楽しそうに遊んでたじゃん」

夫は本当に楽しそうだった。最初は嫌々だったかもしれないが、途中から本当にサッカーで龍彦と遊ぶのを心から楽しんでいたように見えた。もしかして、夫は子供と遊んだことがほとんどなく、自分は子供が嫌いだと勝手に思い込んでいただけではないのか。

「ねえ、子供のこと、1回ちゃんと話し合おうよ」

思い切って、瑞穂は夫に持ちかけてみた。このチャンスを逃せば、そのまま夫婦生活が終わりに向かってしまうような気がした。

「私の気持ちは前と変わらなくて、やっぱり産みたい。あなたはどうなの?」

「俺は、ちょっと迷いが生まれてるよ。子供は絶対にいらないと思っていたけど、もしかしたら子供がいる人生もいいんじゃないかなって思い始めてる」

やはり、龍彦と遊んだことをきっかけに夫の気持ちに変化が生じていた。というより、夫が自分の本当の気持ちに気づいたという方が正しいのかもしれない。

「それなら、一緒におなかの子供を育てようよ。あなたが反対したら、私はあなたと別れて、ひとりで産んで育てるから」

夫にはっきりとそう宣言した。一緒に子供を育てるか、お互いひとりの生活に戻るかのどちらかだ。退路は断たれた。ここで夫がどう答えるかによって、夫婦の未来が決まる。

はっきりと宣言された夫は黙ってしまった。うつむいて、じっと考え込んでいる。きっといろいろな考えが頭の中をぐるぐる渦巻いているのだろう。

「分かった。一緒に子供を育てよう」

夫はそう言ってくれた。

思わず、瑞穂は目を真っ赤にして泣き出してしまった。泣きながら「ありがとう」と言った。妊娠していることを告げてから苦しい日々が続いた。自分ひとりでも子供を育てられる自信はあったが、ずっと一緒に過ごしてきた夫がいなくなってしまうかもしれないと考えると、不安で仕方がなかった。

そこから、2人でいろいろなことについて話し合った。事実婚の夫婦に子供ができた場合、父親と子供には法律的には親子関係がないので、法律的に親子になるためには、認知届というものを提出する必要がある。妊娠が分かってから、瑞穂はいろいろと調べていたのだった。認知届の話をすると、夫は「一緒にだしに行こうよ」と言ってくれた。

「一緒にだしに行こうよ」という言葉から、瑞穂は夫の覚悟を感じ取った。まだまだ不安な気持ちもあるけれど、この人と力を合わせれば、きっと子供を育てていけると思った。

夫婦にはひとつだけ決めていることがあった。男の子か女の子かまだ分からないが、子供が生まれたら、親子で一緒にサッカーをやろう。夫がカッコ良いドリブル技を披露できるように、今のうちに練習用のボールを買っておこうかな。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。