●FW:平山相太

 若くして評価され、「天才」と称される選手たちがいる。しかし彼らがそのままスター選手として活躍し続ける保証はない。怪我やプレッシャーに苦しみ、コンディションを落としていく者もいる。今回は大きな期待を背負いながらも才能を発揮しきることのできなかった10人の日本人選手を紹介する。※成績は『transfermarkt』を参照。
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生年月日:1985年6月6日
主な在籍クラブ:ヘラクレス、FC東京、ベガルタ仙台
現所属クラブ:-

 平山相太は“怪物”と呼ばれた規格外のフォワードだった。国見高校在学中に頭角を現し、190cmの体躯を武器にゴールを量産。高校三年時の全国高校サッカー選手権で9ゴールをあげて得点王となり、国見高校を優勝へと導く活躍で世間の注目を集めることとなった。

 平山は世代別代表でもポテンシャルを発揮した。2003年のワールドユース(現FIFA U-20ワールドカップ)ではU-20エジプト代表から決勝ゴールを奪って日本の決勝トーナメント進出に大きく貢献し、翌2004年のアテネオリンピックにも19歳で出場している。

 プロ入り前から大きな存在感を示していた平山であったが、その後は期待に見合った活躍ができていたとは言えない。2005年夏にオランダのヘラクレスでプロキャリアをスタートさせ、初年度は31試合出場8ゴール3アシストと上々のスタートを切ったが、翌シーズンに構想外となり、2006年9月にFC東京に加入した。日本で活躍すれば再び欧州挑戦となったかもしれないが、キャリアを通してリーグ戦で2桁得点を記録することはなく、2011シーズン以降は度重なる怪我も影響し欠場が増えていった。

 怪我に悩まされた平山は32歳でスパイクを脱ぐ決意をする。プロキャリアを通してその才能を発揮しきれたとは言い難いが、Jリーグでも印象的なゴールを奪って観客を魅了していた選手であった。現在は仙台大学サッカー部の監督を務めている。

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●MF:市丸瑞希

生年月日:1997年5月8日
主な在籍クラブ:ガンバ大阪、FC岐阜、FC琉球
現所属クラブ:FC SONHO 川西

 ガンバ大阪の育成組織出身の市丸瑞希は「遠藤保仁の後継者」と目される存在であった。優れたパスセンスを持ち、司令塔としてタクトを振っていた市丸は、2016年にトップチーム昇格を果たしてプロキャリアをスタートさせた。

 2017年のFIFA U-20ワールドカップでは同じくガンバ出身の堂安律と息の合った連係を見せ、グループステージのU-20イタリア代表戦で堂安の同点ゴールをアシストした。この大会で主力のボランチとして起用されていた市丸は今後の日本サッカー界をリードする存在として期待された。

 しかし市丸はガンバのトップチームでは出場機会に恵まれず、キャリアは急速に下降線をたどることになる。2019シーズンにFC岐阜へ、2020年にFC琉球へ期限付き移籍してプレー機会を求めた。2021シーズンに琉球へ完全移籍となったがリーグ戦わずか10試合で計58分の出場にとどまり、契約満了での退団となってしまう。

 プレー時間の減少もあって大きくコンディションを落とした市丸は、結局このシーズンを最後にプロサッカー選手としてのキャリアにピリオドを打つこととなった。現在は兵庫県社会人サッカーリーグに属するFC SONHO 川西に所属しながら、指導者としても選手の育成に関わっている。

●MF:財前宣之

生年月日:1976年10月19日
主な在籍クラブ:ベガルタ仙台、モンテディオ山形
現所属クラブ:-

 財前宣之は度重なる負傷によってそのポテンシャルを発揮しきることのできなかった天才プレーヤーである。日本サッカー界のレジェンドである中田英寿以上の才能とも評された財前は1993年のFIFA U-17世界選手権でベストイレブンにも選ばれる活躍を披露して注目を集めることとなる。

 財前は若くして欧州でプレーすることを志向しており、1995年にはイタリアのラツィオへ留学し、同クラブの下部組織で研鑽を積んだ。財前は日本サッカーを背負って立つ存在として期待されたが、留学後に左膝前十字靭帯断裂の大怪我に見舞われてしまう。そして1996年に当時スペイン1部のログロニェスへ移籍するも、合流後すぐに再び靭帯を断裂し、公式戦に出場することなくスペインを後にした。

 財前は傷を癒して1999年に当時J2のベガルタ仙台に加入するが、ここでもデビューから6試合目に靭帯断裂の大怪我を負ってしまった。その後、大怪我を乗り越えた財前は、仙台とモンテディオ山形で活躍するが、A代表に一度も招集されることなくキャリアを終えた。仙台ではリーグ戦154試合に、山形では105試合に出場し、東北の地で確かな実績を残した財前であったが、10代の頃の活躍を考えると、“怪我が無ければ”と悔やまれてしまう。

●MF:比嘉厚平

生年月日:1990年4月30日
主な在籍クラブ:柏レイソル、モンテディオ山形
現所属クラブ:-

 比嘉厚平もまた不運な怪我によって運命を変えられた選手の一人である。柏レイソルの育成組織で攻撃的才能を開花させ、小柄な体格ながら鋭いドリブルや優れた戦術眼を武器に各世代別日本代表に招集されていった。

 AFC U-17選手権2006では優勝を果たした日本代表メンバーに名を連ねた。2007年12月には翌シーズンからの柏のトップチーム登録を内定させ、順風満帆なキャリアを重ねることが期待されたが、その後悲劇に見舞われてしまう。2008年1月に行われたU-19カタール国際親善トーナメントを戦う日本代表メンバーに選出された比嘉は、U-19中国代表との試合で左膝前十字靱帯損傷、左膝半月板損傷、右膝半月板損傷の大怪我を負ってしまった。

 長期の治療を要した比嘉は2008年の公式戦に出場することができなかった。2009年から柏のトップチーム昇格を果たすもかつての輝きを取り戻すことができず、2シーズンにわたり公式戦の出場が1試合のみとプレー時間はごく限られたものとなってしまった。2011シーズンから柏を離れてブラウブリッツ秋田(当時JFL)、モンテディオ山形でプレーするが、依然として怪我に苦しめられて2016年に26歳の若さで引退を発表した。

 同じく柏で育った元日本代表DF酒井宏樹からもその才能を評価されていただけに、悔やまれるキャリアの幕引きであった。比嘉は現在モンテディオ山形のアカデミーでコーチを務めている。

●FW:森崎嘉之

生年月日:1976年4月20日
主な在籍クラブ:ジェフユナイテッド市原(現ジェフ千葉)
現所属クラブ:-

 森崎嘉之は全国高等学校サッカー選手権大会のヒーローであった。1994年度の第73回大会決勝で帝京高校相手に圧巻のハットトリックを決め、エースストライカーとして市立船橋高校を優勝に導く活躍を見せた。大会を通じて8ゴールをあげた森崎は得点王にも輝き、将来を嘱望される存在となった。

 高校ではヘディングを武器に圧倒的な力を見せつけていた森崎であったが、高校卒業後の1995年に加入したジェフユナイテッド市原(現ジェフ千葉)で“プロの壁”に阻まれてしまう。当時ジェフには日本代表でも活躍した城彰二も在籍しており、出場機会を得るのは容易ではなかった。

 結局、森崎がプレーしたジェフの公式戦は1996年のJリーグヤマザキナビスコカップ(現JリーグYBCルヴァンカップ)の1試合のみで、それもわずか4分間の出場であった。戦力外となった森崎は2年でプロの世界を去ることとなってしまい、その後は水戸ホーリーホック(当時JFL)や横河電機サッカー部でプレーするが、1999年に23歳でスパイクを脱ぐ決断をした。

●FW:小松原学

生年月日:1981年4月2日
主な在籍クラブ:湘南ベルマーレ、ヴァンフォーレ甲府
現所属クラブ:-

 小松原学はその才能によって日本代表としてもプレーすることを期待されていた選手である。少年時代から抜きん出た才能を発揮してベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の育成組織に加入すると、1998年に17歳でJリーグデビューを果たす。これは当時の最年少出場記録であった。

 そのシーズンのベルマーレでの公式戦出場数は5試合であったものの、大きなインパクトを世間に与えることとなった。小松原は17歳ながら飛び級でU-19日本代表にも選出され、同じくベルマーに所属していた中田英寿と同じように欧州へ飛び立っていくことも考えられていた存在だった。

 しかしその後はジョーンズ骨折(疲労骨折の一種)に苦しみながらプレーを続けたことによってパフォーマンスを低下させていき、公式戦の出場が5試合にとどまった2001シーズンを最後にベルマーレを退団している。翌2002シーズンにヴァンフォーレ甲府に加入するも怪我の影響により公式戦8試合にしか出場できず、以降Jリーグのピッチに立つことはなかった。

 その後、小松原はJFLでプレーするも、2005年に現役を引退している。小松原が飛び級で名を連ねた世代別代表は、小野伸二や遠藤保仁、稲本潤一らの“黄金世代”であっただけに、惜しまれる選手であった。

●FW:矢野隼人

生年月日:1980年10月29日
主な在籍クラブ:東京ヴェルディ、ヴァンフォーレ甲府
現所属クラブ:-

 高いフィジカル能力によってゴールを量産し、坊主頭の風貌もあって“和製ロナウド”と呼ばれて将来を大きく期待されていたストライカーがいた。矢野隼人である。1998年度の第77回全国高等学校サッカー選手権大会では帝京高校の攻撃を元日本代表FW田中達也とともに牽引し、同校を準優勝に導いている。

 そのパフォーマンスによって、1999年にヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)の日本サッカー協会強化指定選手(現特別指定選手)となり、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)戦でJリーグデビューを果たす。デビュー戦からスタメンで出場した矢野に大きな注目が集まったが、プロ入り後は結果を残すことができなかった。

 2000年にヴェルディに正式に加入するも出場機会に恵まれず、2001年までの2シーズンで公式戦の出場は7試合となった。再起を図って2002シーズンにはヴァンフォーレ甲府へ期限付き移籍するも、ここでも公式戦1試合にしか出場できなかった。このシーズンを最後に矢野は引退を選択。2007年にFC刈谷(当時JFL)で現役復帰するも翌年に再びスパイクを脱ぐ決断をする。超高校級ストライカーはプロの世界ではほとんど輝きを見せることができなかった。

●FW:カレン・ロバート

生年月日:1985年6月7日
主な在籍クラブ:ジュビロ磐田、VVVフェンロ
現所属クラブ:-

 北アイルランド人の父と日本人の母を持つカレン・ロバートは市立船橋高校で評価を高めた選手だ。10番を背負って全国高等学校サッカー選手権大会と高円宮杯全日本ユースを制覇し、天皇杯でも横浜F・マリノスを苦しめた。

 カレンは2004年に鳴り物入りでジュビロ磐田に加入する。2005シーズンにリーグ戦31試合出場13ゴール3アシストをマーク、Jリーグ新人王を獲得した。しかし翌シーズンからJリーグの成績が下降気味となり、2006から2010シーズンの間にあげたゴールは16のみと、かつての成績を考えると寂しいものとなってしまった。

 だが2011年冬にオランダのVVVフェンロに加入すると2010/11シーズンの昇・降格プレーオフで得点をあげてクラブの窮地を救う活躍を見せた。再び輝きを取り戻すかと思われたカレンであったが、2013年にフェンロとの契約が満了を迎えると、希望するイングランドへの移籍を模索するが叶わず、結局タイのスパンブリーFCへ加入することとなった。

 その後、韓国、インドとアジアのリーグを転々とし、代理人とのトラブルにも見舞われて無所属の期間が1年以上続いた末に2018年7月にイングランド7部相当のレザーヘッドFCに加入。翌年に現役引退を表明した。世代別日本代表にも選出されて将来を期待されていたFWであっただけに、キャリア終盤の低迷は当時の活躍からは予想だにしないものとなった。しかしフェンロでの2年目からは背番号10を託されており、欧州の地で足跡を確かに残した日本人選手であると言えるだろう。

●MF:礒貝洋光

生年月日:1969年4月19日
主な在籍クラブ:ガンバ大阪、浦和レッズ
現所属クラブ:-

 Jリーグの黎明期、まだサッカーが日本においてメジャースポーツではない時代に現れた天才プレーヤーが礒貝洋光だった。正確なキックやパスを武器とし、“ラモス瑠偉の後継者”とも目された礒貝は他の天才選手と同様に少年時代からその名を轟かせていた。

 名門帝京高校で10番を背負い、U-20日本代表としてもFIFAワールドユースアジア予選に出場、東海大学在学中から日本代表に名を連ねるなど着々とステップアップしていった礒貝は、Jリーグ開幕前年の1992年に大学を中退してガンバ大阪に加入した。

 ガンバでスター選手としてプレーし、1995シーズンにはリーグ戦37試合出場13ゴールの好成績を残すが、礒貝在籍中のガンバの成績は低迷しており、自身の怪我の影響もあってモチベーションを低下させていってしまう。1997年に浦和レッズに移籍するも、そのシーズンを10試合出場3ゴールの成績でフィニッシュし、1998年に29歳で現役を引退した。

 Jリーグ草創期を彩り、日本代表でも活躍を期待されていた天才は、国際Aマッチの出場も2試合でキャリアを終え、そのポテンシャルから考えると寂しい幕引きとなった。なお、礒貝は引退後、プロゴルファーに転身したことでも話題となっていた。

●MF:玉乃淳

生年月日:1984年6月19日
主な在籍クラブ:東京ヴェルディ、徳島ヴォルティス、横浜FC
現所属クラブ:-

 欧州クラブの育成組織で育って大成した日本人選手の代表として久保建英の名前があげられるが、彼に先んじてスペインの地で少年時代を過ごした天才がいた。玉乃淳である。ジュニア時代から東京ヴェルディでプレーしてきたエリートは、1999年のナイキプレミアカップで見せた活躍によってアトレティコ・マドリードの下部組織から声をかけられた。

 玉乃は日本を離れてアトレティコ・マドリードのユースチームでプレーすることを選択する。この時代に元スペイン代表FWフェルナンド・トーレスと2トップを組んだのは有名な話だ。ここで活躍していた玉乃であったが、外国人枠の問題によりクラブのBチームに昇格できなかったこともあって、2002年にヴェルディに復帰することとなった。

 しかしその後の玉乃はフィジカル面で伸び悩んだこともあり歯車が狂いはじめ、ポテンシャルを発揮しきることができなかった。ヴェルディでトップチームデビューを果たすも、2005年までの在籍4シーズンでリーグ戦の出場が26試合にとどまってしまう。出場機会を求めて徳島ヴォルティス、横浜FCに移籍するがここでもかつての輝きを取り戻せず、怪我も影響して2009年にザスパ草津で現役を引退した。25歳で引退という短いキャリアであったが、玉乃は欧州を目指す日本人選手の先駆けの1人となった。

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