日本演劇界を代表する劇作家で、劇団「唐組」主宰の唐十郎(から・じゅうろう、本名・大靏義英=おおつる・よしひで)さんが4日午後9時1分、急性硬膜下血腫のため死去したことを5日、同劇団が公式サイトで発表した。84歳だった。野外の仮設劇場「紅(あか)テント」で国内外を巡演し、小劇場運動を先導。“アングラ演劇の旗手”として代表作「唐版 風の又三郎」「泥人魚」など100本以上の戯曲を発表した。葬儀は近親者のみで執り行う予定で、日にちは未定という。

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 作り手のイメージが強い唐さんだが、役者としてもっと評価されるべきだった。学生時に見た「逢魔が恋暦」(88年、新橋演舞場)がいまも印象に残る。口跡の良さも手伝い、力感なくセリフを発するときも後方までよく通った。圧ではなく、キュルキュルと小さな竜巻を起こして場内の空気を変化させていくように感じられた。大劇場でも輝いていた。

 20年ほど前、大物女優の息子の事件で身元引受人になっている。後輩記者と唐さんの自宅近くの居酒屋に行った。女優の息子の感性や筆力を評価し「いつか彼に脚本を書かせたいと思ってるんだ」とうれしそうに語ったこともあった。

 そして当時小学生だったと思うが娘の「美仁音(みにおん)」の名前を「ミニョン、ミニョン」と連呼し、子煩悩ぶりをうかがわせた。「明日は子どもの送り迎えがある」といい、それも「自転車で」と。私たちは「えっ? 自転車? 2人乗り?」と話半分に聞いていた。しかし酒が進んでも目のギラつきは変わらなかった。

 大阪で取材した際、作品のアイデアはどこから生まれるのか、という話をした。唐さんの父は映画製作に携わった。子ども時代から本好きの母は戯曲が同人誌に掲載されることも。その母が“寅さん”のように話術にたけ、聞く者をたちまち引き込む人だったという。作劇法の原点は母親にあった。

(内野 小百美)