1972年札幌冬季五輪スキー・ジャンプ男子の70メートル級で優勝し、日本人で初めて冬季五輪の金メダリストとなった笠谷幸生さんが23日、虚血性心疾患のため、札幌市の病院で死去した。80歳だった。

 北海道の余市高から明大に進み、1964年のインスブルック冬季五輪に出場。ニッカウヰスキー入り後の68年のグルノーブル大会にも出場した。72年の札幌冬季五輪では笠谷さんが優勝、2位に金野昭次さん、3位に青地清二さん(ともに故人)が入り、初めて日本が表彰台を独占。「日の丸飛行隊」と称され、日本列島を熱に包んだ。

 76年のインスブルック大会に出場後の同年に現役引退。引退後は日本オリンピック委員会(JOC)で選手強化副本部長を歴任するなど、競技の推進に尽力してきた。

 98年長野五輪団体金メダリストの原田雅彦さんがアドバイザーを務める雪印メグミルクスキー部を通じて追悼した。

「ご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。突然の訃報を聞き、悲しい思いでいっぱいです。

 笠谷さんは、札幌オリンピック金メダリストとしてもちろん憧れの選手でしたが、私は指導者となられてから大変お世話になりました。常に寄り添い、たくさんの事を教えて頂き、私が途方に暮れた時も、力強く励ましてくれた事、今でも忘れません。そのおかげで自信を持ち、ジャンプ選手として成長出来たと思っています。

 スキー連盟やJOC理事などの時も、オリンピックのたび、ジャンプを助けて頂き、長野では世界一へと導いてくれました。本当にありがとうございました。心から感謝し、尊敬しています。 原田雅彦」

 ◆日の丸飛行隊 自国開催だった72年札幌五輪で、スキージャンプ男子70メートル級の表彰台を日本勢が独占したことから名付けられた。笠谷幸生が244.2点で金メダル。金野昭次が234.8点で続き、青地清二が229.5点で銅メダルに輝いた。「日の丸飛行隊」は、その後もジャンプ日本代表の愛称として定着した。