球団創設90周年を迎えた巨人。スポーツ報知に残る膨大な取材フィルムの中から記憶に残る名シーンを振り返る写真企画「瞬間の記憶」の第5回は、1997年に右肘のけがから661日ぶりに1軍マウンドへ戻ってきた桑田真澄です。

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 「ピッチャー桑田、背番号18」。歓声の中、ベンチからゆっくりマウンドに向かった桑田は、帽子を取るとひざまずいた。右肘をピッチャープレートにつけてつぶやいた。翌日の報知新聞はこの時の様子を、こう表現した。

 「5万5000人の観客が、思わず動きを止めた。(中略)『マウンドの神様、ボクは帰ってきました。あなたのもとへ、今、帰ってきました』(中略)右ひじ手術前から決めていた“儀式”。誰にはばかることなく、桑田は神に祈りをささげた」

 センターカメラ席から1200ミリレンズで撮影していた、当時入社7年目の二川雅年(55)は「何かするだろう」と桑田が姿を現した瞬間から目を離さなかった。「礼儀正しい人だから、四方に頭を下げるとかするかな、と。でも急に伏せたから反射的に連写、土下座をしたのかと思った」。当時はフィルムのため、何をしていたのかすぐ画像を確認できなかったが、試合後に会社で1面を飾った写真を見て「こんなことしていたんだと、想像を超えていた。彼らしいな」と感心したという。

 95年5月24日の阪神戦(東京D)。桑田は湯舟の三塁ファウルグラウンドへのバント小飛球にダイビングキャッチを試み、右肘を強打した。右肘内側側副じん帯を断裂してトミー・ジョン手術を受け、長期離脱。ジャイアンツ球場の外野の芝生には、黙々とランニングする部分がはげて道のようになった“桑田ロード”ができた。「毎日、見に来てくれているファンのみなさんは、ボクの復活を信じて来てくれるんです。その人たちを裏切ってはいけない」(当時の紙面より)という信念が作った伝説の一本道。写真部OBの中山広亮(83)は「よみうりランドに行くといつも延々と走っていてね。言葉は交わさなかったけれどよく撮っていた」。地道な思いがかなった東京ドームのマウンドだった。

 復帰戦の3回には再びバント処理でダイビングキャッチを試み、ひやりとさせた。「けがした時と似ていたから、ちゅうちょしない精神力はすごいなと思った」と二川。自身も大事な巨人戦のセンターを任された時期。プロの覚悟を見せつけられた、今でも忘れられない試合という。桑田はこのあと2006年までに63勝を積み重ね、通算173勝を挙げた。

 ◆97年の巨人 第2次長嶋茂雄政権の5年目、西武から清原和博が加入したが、投打がかみあわず4月を4位で終えると5月以降は最下位。終盤の追い上げも届かず、Bクラスの4位で終えた。復活した桑田は10勝を挙げ3年ぶりのゴールデン・グラブ賞受賞。秋のドラフト会議では慶大の高橋由伸を獲得した。