リーダーは真正面から戦わない

 第3次川中島合戦は、弘治3年(1557)2月から始まります。同年2月、上杉方の葛山城が武田軍の手により、陥落したことが要因と考えられます。しかし季節は冬であり、深雪に阻まれて、越後からのすぐの出兵は困難でした。謙信が信濃に出陣できたのは4月中旬のことでした。が、この時も両軍は大規模衝突することなく、戦いは終了します(現在の長野市若槻の上野原において両軍は衝突はしています)。信玄は謙信との直接対決を避けていたのです。

 川中島合戦で最も有名なのは、4回目でしょう。永禄4年(1561)8月中旬、謙信軍は越後を出陣し、善光寺に陣を置きます(8月15日)。翌日には、犀川を渡り、武田方の海津城(春日虎綱)を通過し、妻女山に布陣。信玄は、謙信の進出を知らされ、8月18日に甲府を出陣します。8月24日に信玄は川中島に入りますが、上杉軍は妻女山を動く気配はなく、海津城に入城(8月29日)。

 これまでの1・2・3回目の川中島合戦を踏まえるならば、この時も、正面衝突は回避されてもおかしくはなかったのですが、乱戦となってしまいます。大規模な衝突となってしまったのは「双方の作戦の食い違いと、当日朝の濃霧のため」と言われています。武田軍は妻女山の上杉軍攻撃のため、1万2千の別働隊を夜中に派遣(武田軍は約2万)。

 これは、武田別働隊の攻撃により、上杉軍は下山するであろうから、そこを本軍と別働隊により挟撃する作戦でした。ところが、上杉軍は既に妻女山を下り、川中島に進出してくるのです。海津城内での慌ただしい動きを知った謙信が、近いうちに、武田方からの攻撃があるものと予想し、下山を命じたと言われています(9月9日夜)。

 9月10日の朝は濃霧でした。よって、謙信は武田別働隊が接近しているとは思っていませんでしたし、信玄も上杉軍が妻女山を下りているとは思ってもいませんでした。が、霧が晴れると、武田軍の前方には上杉軍約1万3千が…。武田方は別働隊を派遣していましたので、劣勢となっていました。両軍はついに正面から激突します。午前6時頃から戦は始まりますが、当初は武田軍は劣勢であり、信玄の弟・信繁や、足軽大将の山本菅助らが討死してしまうのです。

 しかし、武田別働隊が開戦に気が付き、川中島に戻り、攻撃を仕掛けると(午前10時頃か)、形勢は逆転。上杉軍が押されることになります。乱戦の最中、上杉謙信が武田の陣に突入し、信玄と一騎打ちをしたとする逸話がありますが、信用できる史料からは確認できず、おそらく事実でないと考えられます。

 が、戦いの後で、関白・近衛前久が謙信に送った書状には「自身(謙信)太刀討ちに及ばるる段」と書かれていますので、謙信自ら太刀を振るい、武田兵と戦ったのは事実です。激闘が繰り広げられますが、ついに上杉軍は撤退。合戦は終結します(午後4時頃)。この合戦における戦死者は武田の方が多かったとされますが、武田は上杉方の南下を食い止めることに成功しました。両軍は二度とこのような乱戦をすることはありませんでした。

 そのような余力はなかったためと考えられます。信玄としても本当ならば、乱戦にしたくなかったはずです。決戦せずに、犠牲を少なくして、良き勝利を得ることを目指していたはずが、偶然や環境によって、予定が狂い、消耗戦になってしまったのでした。

 山田英夫(早稲田大学ビジネススクール教授)は「リーダー企業に比べて経営資源の劣る企業が生き残っていくには、真正面からリーダー企業と戦うのは得策ではない」「不毛な消耗戦から抜け出すためには、競争しない状態を作ることが重要」(「不毛な消耗戦を避ける競争しない3つの戦略」『日経ビジネス』2021・12・1)と述べていますが、信玄の勢力が謙信に劣るか否かは別にして、消耗戦を避け続けてきた信玄の戦略は間違ったものではなかったと言えるでしょう。

(主要参考文献一覧)
・柴辻俊六『信玄の戦略』(中公新書、2006)
・笹本正治『武田信玄』(中公新書、2014)
・平山優『武田三代』(PHP新書、2021)

(濱田 浩一郎)