花山天皇の誕生

 永観2年(984)8月、円融天皇が譲位し、花山が17歳で即位した。

 皇太子には5歳の懐仁親王(のちの一条天皇 980〜1011在位986〜1011)が立てられた。

 懐仁は、円融天皇と、吉田羊が演じる藤原詮子(961〜1001/兼家の娘、道長の姉)の子だ。

 冷泉系が天皇家の嫡流と認識されていたが、次代の天皇は円融系である懐仁が皇太子となった。

 こうして、花山朝が始まった。

 関白は橋爪淳が演じる藤原頼忠(924〜989)が、円融朝から引き続き務めたが、花山がもっとも重用したのは、外叔父の藤原義懐だといわれる。

 義懐は花山の母・懐子の同母弟で、花山より11歳年長である。

 義懐は蔵人頭、参議、権中納言と異例の昇進を重ね、吉田亮が演じる花山の乳母の子・藤原惟成(953〜989)とともに花山を支えた。

 花山の即位から三ヶ月後の11月には、適正でない手続きで立荘された荘園を整理・停止するための「荘園整理令」(伊東俊一監修『「荘園」で読み解く日本の中世』)を発布したり、破銭を嫌うのを禁止する政令を出し、通過流通の円滑化で物価の高騰を抑制しようと試みたりするなど、積極的な政治を行なったという(今井源衛『国語国文学研究叢書8 花山院の生涯』)。

 歴史物語である『大鏡』によれば、世間の人々は、花山を「内劣り外めでた」——私生活は劣っているが、政治面はすぐれていると称したという。

寵姫・忯子の死

 平安後期の歴史書『日本紀略』(『国史大系』第5巻所収)によれば、花山の即位の二ヶ月後となる永観2年(984)10月に、井上咲楽が演じる藤原忯子(969〜985)が入内している。

 忯子は、阪田マサノブが演じる大納言藤原為光(942〜992)の娘である。

 忯子は花山から大変に寵愛され、ほどなく懐妊する。

 ところが、寛和元年(985)7月18日、懐妊七ヶ月(歴史物語『栄花物語』では八ヶ月)で、忯子は亡くなってしまった。

『栄花物語』巻第二「花山たづぬる中納言」によれば、花山は悲嘆のあまり、声を惜しまず、みっともないくらいに泣いたという。

 忯子の死は、次に述べる花山の出家の原因ともいわれる。