(歴史ライター:西股 総生)

●戦略から読み解く山城の盛衰〜岐阜城(前編)

(前編から)岐阜城を実際に訪れてみて驚くのは、山の上の狭さだ。天守のまわりも露岩がゴツゴツしていてスペースに乏しい。山の上の均せるところを均して縁に石垣を積み、限られたスペースにギュウギュウ詰めに建物を建てていたのだろう。

 信長の山上御殿だって、二階建て・三階建てにせざるをえなかったに違いない。天守などという建物のスタイルも、案外そんなところから発想されて安土城につながったのかもしれない…などと考えながら、再びロープウェイで下山するが、これで終わりではない。

 山麓にも居館があって、発掘調査によってその実態が解明されつつあるのだ。どうやら信長時代には、山麓部は迎賓館のような使い方をしていたらしい。

 調査で見つかった遺構の一部は、公園の中に復元整備されているし、わかりやすい説明板なども随所に設置されている。公園に隣接する岐阜市歴史博物館にも、出土遺物をはじめとした資料が多く展示されているから、見学したいところだ。

 一つ留意しておきたいことがある。岐阜城というと信長の城というイメージが強いが、信長が岐阜にいたのは10年足らずなのである。一方、天正4年(1567)に信長が安土に去ったのちも、この城は存続していた。岐阜城の後半生を整理しておこう。

 天正10年(1582)に本能寺の変で信長・信忠が横死すると、織田家の家督は信忠の遺児だった三法師が嗣いで、岐阜城主となる。三法師が成人する頃には、天下の権はすでに羽柴秀吉の手中にあったから、三法師も秀吉から一字をもらって秀信と名乗るようになる。信長の息子である信孝や信雄を相次いで死に追いやり、あるいは屈服させた秀吉も、さすがに秀信には手を出さず、彼は岐阜城主として13万石を領していた。

 ところが、秀吉が死んで天下が乱れ、諸将が徳川家康方と石田三成方に分かれると、秀信は三成方の西軍につく。結果として岐阜城は東軍の攻撃対象となり、福島正則・池田輝政らの猛攻を受けてあえなく落城。秀信は出家して高野山に去るのだ。

 つまり、信長が去ったのちも24年間にわたって、岐阜城は織田家の本城であり続けたわけだ。当然、その間にリニューアルもされたはずで、岐阜城に残っている遺構や出土した遺構・遺物が、すべて信長に結びつくわけではない。

 それにしても福島正則・池田輝政は、こんなに高く険しい山城を、よくぞ攻め落としたものと思う。戦国時代の人たちは、現代人の想像も及ばないような無茶なことを、平気でやってのけていたらしい。

 かくて岐阜城は廃され、替わって入った奥平信昌は、金華山の3.5キロほど南に加納(かのう)城という平城を築いた。奥平信昌とは、長篠合戦のときに長篠城の守将だった人だ。岐阜城から加納城へと城が移された理由は、戦略という観点から読み解くことができる。

 関ヶ原合戦後の徳川方の戦略配置を見ると、大坂の豊臣方に対する前衛として、まず彦根城と伊賀上野城があり、そのパックアップとして大垣城と津城がある。これらの後方にあって、扇の要の位置を占めるのが名古屋城だ。つまり、徳川軍が集結・展開するための作戦基地である。

 であるなら、岐阜の地は中継拠点の役目を割り当てられているわけだ。美濃一国の拠点として、敵の攻撃にも持ちこたえられる城なら山城の岐阜城でよいが、徳川軍全体の戦略配置で考えるなら平城の方がよいから、岐阜城は用済みになったわけである。

 戦国時代から近世にかけて、城は山の上から平地に下りてきたとか、山城は時代遅れになったとか、教科書的には説明されている。でも、教科書的な説明とは所詮、後付けの理屈である。実際には、具体的な戦略を地理に落とし込んだ結果が、一つ一つの城にの成立事情や必然性になるのだ。岐阜城の盛衰は、そのことを知る好例と言えるだろう。

[参考図書] はじめて城を歩く人に読んでほしい、城の見方の基礎が身につく本、西股総生著『1からわかる日本の城』(JBprees)好評発売中!

(西股 総生)