2023年に世界遺産登録30周年を迎えた国宝姫路城。このほど、姫路市の清元秀康市長がゲストを迎えて姫路の魅力について語るラジオ番組に、播磨学研究所の創設者で名誉所長でもある中元孝迪氏が2週にわたって出演。姫路城と、その初代城主である池田輝政の魅力について解説しました。

○姫路城の多彩な魅力
 中元氏は姫路城の魅力を、(1)最高の美的構造、(2)最強の防衛構造、(3)最高度の政治性、以上の3つに分けて紹介しました。

 姫路城の美しさを語る上で欠かせないのが、白鷺にも例えられる真っ白な天守。じつは、戦国時代には城の色は黒が主でした。周囲に威厳を示すためなどの様々な理由があります。のちに江戸時代に入り、徳川家康が政治の大転換と共に白い城を造りました。それが江戸城と姫路城です。

「姫路城と江戸城は造りがよく似ている」と中元氏。姫路城は、大天守と小天守を組み合わせた“連立天守”と呼ばれる構造ですが、江戸城も同じ連立天守だったのだとか。姫路市民にとっては当たり前のように感じられるこの構造も、歴史的にはあまりないものなのだそうです。

 また姫路城は、家康にとって反徳川大名の多い西国防衛の要衝でもありました。夜に姫路城の天守に登った経験のある清元市長は「夜になると、明石海峡大橋だけでなく鳴門大橋や瀬戸大橋まで見ることができる」とコメント。これについて中元氏は、姫路城が建つ場所は「瀬戸内海を行く船が見渡せる場所」とし、敵対勢力の船の襲来が直ちに分かることも家康は分かっていたと話しました。

 そんな姫路城の初代城主を務めたのが池田輝政です。

○池田輝政 〜家康から厚い信望を得た武将〜
 池田輝政が姫路城主になった背景について、「関ヶ原の合戦で活躍したから」とした中元氏。それにもかかわらず評価があまり目立たない印象なのは、輝政の関ヶ原でのポジションが殿(しんがり)だったからだと話します。

 殿は、いざという時に大将を命をかけて守る最後の砦(とりで)であり、大将からの信頼がないと任されない役割。つまり、歴史上には目立った功績が残りにくいものの、家康から輝政への信頼はそれほどまでに厚かったと言えます。

 輝政が殿の任を受けた理由を、中元氏は、関ヶ原の合戦の1か月ほど前にあったとされる「岐阜城攻め」だと語りました。この岐阜城攻めは、まさに関ヶ原の前哨戦ともいうべき戦でした。

 山の上に位置する岐阜城は、守備が固く攻めにくい場所で、徳川軍は不利になることが予想されました。しかしこの岐阜城攻めを任された池田輝政こそ、元岐阜城城主でした。その地理を知り尽くしていたことによって、いとも簡単に岐阜城を陥落させたのです。

 これをたいそう喜んだのが家康です。この勝利をきっかけに全軍を一気に進軍させて攻勢に転じ、西軍を追い込んでいくことになります。当時、家康が喜びをしたためて輝政へと送った手紙が今も残っていると、中元氏は話しました。

 関ヶ原の合戦での勝利後、家康から姫路城主に任命された輝政。西国防衛とともに、わが国初の世界文化遺産となる姫路城も築いています。「『姫路城といえば池田輝政』というふうに、もっと定着してほしい」と願いを声にした中元さんに、清元市長も「姫路城と池田輝政をもっともっと周知していきたい」と応えました。

(文=西真莉恵)

※ラジオ関西『ヒメトピ558』2024年4月5日、12日放送回より

※参考文献=「姫路市史」(姫路市)、「岐阜県史」(岐阜県)、「西国将軍 池田輝政 姫路城への軌跡」(著:中元孝迪、刊:神戸新聞総合出版センター)、「池田家履歴略記」(斎藤一興)