2023年の第6戦として開催が予定されていたエミリア・ロマーニャGPは、残念ながら中止となってしまった。豪雨と洪水の被害がかなり大きかったことから、致し方ない判断だ。

 もし開催が実現していれば、サンマリノGP(1981〜2006年)としての開催も含めて、イモラでの30回目のグランプリとなっていたはずだ。

 motorsport.com日本版は、日本のF1ファンの皆さんに印象に残ったイモラでのレースをアンケートした。今回はそのトップ3を紹介しよう。

3位:悲劇の前兆、跳ね馬の内紛(1982年サンマリノGP)

 1982年の第4戦として開催されたサンマリノGPは、開催前から紛糾していた。第2戦ブラジルGPで発覚した水タンク事件の裁定を巡って、グリッドの意見は真っ二つ。結果として、ブラバム、ウイリアムズ、ロータス、マクラーレンなど10チームがサンマリノGPのボイコットしたのだ。

 レースに参加したのは7チーム14台のみだった。これだけでも、F1の歴史に残る事件ではあるものの、ファンの印象に残ったのはこのレースの優勝を巡って、フェラーリのドライバーであるディディエ・ピローニとジル・ビルヌーブの関係が悪化したと考えられているからだ。

 予選でフロントロウを独占したルノー勢がエンジントラブルでダブルリタイアに終わると、レースはフェラーリの独壇場となった。

 2台がランデブー走行する中で、首位のビルヌーブはレース前の取り決め通り、そのままポジションをキープしてゴールすることになると思っていたが、ピローニは最終ラップにビルヌーブの前に立つと、ポジションを譲ることなくトップチェッカー。レース後、ビルヌーブはピローニと二度と口をきかないと誓ったのであった。

 そしてこのサンマリノGPの翌戦、ベルギーGPの予選でビルヌーブは事故により亡くなってしまう。予選終盤にピローニが自身のタイムを上回ったことを知り、再度アタックに向かった中で、スロー走行中のヨッヘン・マスのマシンに激突してのクラッシュだった。

 フェラーリで絶大な人気を誇ったビルヌーブの死という衝撃もあって、このレースはファンの心に強く焼き付いているようだ。

読者からの声
「結果が違ったらジルはもっと大好きなレースができたのかもしれない」
「ジルは人生に大きく影響したヒーローで記録より記憶に残るF1ドライバーでした」

2位:世代交代を象徴する一戦、シューマッハー対アロンソ(2005年サンマリノGP)

 当時23歳のフェルナンド・アロンソと、現役最年長36歳のミハエル・シューマッハーが死闘を演じたのが、このレースだ。

 フェラーリとシューマッハーはこの前年まで5年連続でダブルタイトルを獲得する黄金時代を築いたが、この年は開幕3レースでわずか2ポイントしか獲得できなかった。この不調には、予選・決勝を同じタイヤで戦い、レース中のタイヤ交換も禁止という厳しいレギュレーションの影響が多くあった。

 一方、2003年に初優勝をマークした新進気鋭のアロンソは、2連勝でこのイモラに乗り込んだ。ただ、前戦バーレーンGPで酷使したエンジンのマイレージを抑える必要があり、セッティングも完璧に整えることができなかった。

 イモラではフェラーリが復調の気配を見せたが、予選でシューマッハーにミスがあり13番手。ポールポジションを獲得したのはキミ・ライコネン(マクラーレン)で、アロンソは2番手につけた。

 ライコネンが9周目にドライブシャフトの故障でリタイアすると、アロンソはエンジンを労りながら首位を走行。しかしティフォシたちの声援をバックに驚異的な走りを見せたシューマッハーは、残り12周のところでアロンソに追いついた。

 ペースはシューマッハーの方が速く、執拗にプレッシャーをかけるものの、アロンソは巧みなディフェンス。上手くコースを塞ぎ、トラクションの良さを活かしながら絶対王者の攻撃をしのぎきり、0.2秒差でトップチェッカーを受けた。

 シューマッハーはこの年、ミシュランユーザー14台が棄権したアメリカGPでのわずか1勝に終わった。対してアロンソはこの年チャンピオンを獲得。フェラーリ黄金時代の終焉と世代交代を象徴する一戦として、ファンの心に残っているようだ。

 ただ、翌2006年にはシューマッハーは輝きを取り戻し終盤まで激しいタイトル争いを演じた。この年のサンマリノGPでは、逆にシューマッハーがアロンソを翻弄。前年のお返しとばかりに勝利しており、この2レースをセットにしているファンも多かった。

読者の声
「皇帝ミハエル・シューマッハを倒す男が現れた」
「アロンソとミハエルのバトルは素晴らしかった。アロンソはタイヤが厳しい中、一つのミスもせずミハエルを抑え切った」
「アロンソがシューマッハ相手に1位を守り切ったレース運びが素晴らしかった」

1位:ドライバーふたりを失ったF1史上最悪の週末(1994年サンマリノGP)

 イモラを語る上で、避けては通れないのがこのレース。F1ドライバーをふたり失うという悪夢のような週末が、圧倒的に多くの票を集めた。

 この年はアクティブサスペンションやABS、トラクションコントロールといったハイテクデバイスが禁止に。その影響か、開幕前のテストでベネトンのJ.J.レートが大クラッシュ。第2戦ブラジルGP後のテストでフェラーリのジャン・アレジが負傷し、2レースを欠場するなど波乱が続いていた。

 しかしサンマリノGPの週末は、それ以上に呪われていた。金曜日にはジョーダンのルーベンス・バリチェロが大クラッシュ。マシンが縁石でマシンが跳ねてしまい、金網に激突しながら1回転し、これでバリチェロは鼻骨を骨折してしまった。

 さらに土曜日の予選では、ローランド・ラッツェンバーガー(シムテック)のフロントウイングがコーナー手前で脱落。曲がりきれずにコンクリートウォールに激突してしまう。ラッツェンバーガーはこの衝撃により頭蓋骨を骨折し、33歳で亡くなってしまった。F1での死亡事故は、1982年カナダGPのリカルド・パレッティ以来、テストを含めれば1986年のエリオ・デ・アンジェリス以来だった。

 決勝レースでも悲劇は続く。スタート直後のクラッシュで飛散したパーツの一部が観客席に飛び込み、負傷者が出てしまったのだ。

 そしてセーフティカー先導が終わり、レースが再開された後の7周目、首位を走っていたアイルトン・セナ(ウイリアムズ)が高速コーナーのタンブレロでコースオフし、コンクリートウォールに激突してしまったのだ。

 セナはヘリコプターで病院に搬送されたが、事故発生から約4時間後に34歳で帰らぬ人となった。日本におけるF1ブームを牽引した音速の貴公子の死に、多くのファンが衝撃を受けた。

 しかし、F1はこの事故を受けて安全性の向上に腐心。以後、マシンもサーキットも比べ物にならないほど安全性が高められていくことになった。悲しすぎるレースではあるものの、F1の歴史における転換点だったと言えよう。

読者の声
「F1を見始めてから、あんなに大事なものを失い、あんなに泣いたレースは後にも先にもない」
「英雄の早すぎる死」
「あの時の放送と受けたショックは未だに忘れられない」
「F1が変わるきっかけとなった歴史的なレース」