協奏曲とオペラ

 ビバルディは、「協奏曲」というバロック期と関連が深い音楽の代表的な作曲家として知られている。1711年に最初のバイオリンと弦楽合奏団の協奏曲集を発表し、1713年には、ピエタでの仕事を続けながら、父親とともにベネチアにあるサンタンジェロ劇場の興行主となり、ビバルディにとって2作目となるオペラ『狂気を装うオルランド』を上演した。

 1718年にはピエタでの仕事を休職し、当時オーストリアのハプスブルク家が支配していたマントバの町(現代のイタリア北部)で宮廷楽長に就任した。この時期には、『ティト・マンリオ』というオペラをわずか5日で書き上げている。

 ビバルディは、「標題音楽」というジャンルに引かれていた。標題音楽とは、内容を示す題や聴き手を導く説明などを添えて物語を伝える音楽のことをいう。ビバルディの代表的な標題音楽は、1725年に発表された協奏曲『四季』で、それぞれの曲にはソネット(14行詩)が添えられていた。このソネットが、音楽の描こうとする世界に光を当て、協奏曲の物語性を高めている。

死後の名声

 ビバルディの人気は1720年代に頂点を迎えた後、少しずつ陰りが見え始めた。1730年代後半になると、世間の音楽の傾向と好みが変化し、仕事が減った。浪費家だったビバルディは借金を重ね、ついに債権者から追われるようになる。

 1740年、ビバルディは神聖ローマ皇帝カール6世から何かしらの援助を得ようとしてウィーンへ行った。また、そこでオペラを上演することも期待していた。ところが、同年10月にカール6世が死去したため、劇場は何カ月も閉鎖された。ビバルディにとっては最悪のタイミングだった。

 どうすることもできず、貧困と病に苦しめられたビバルディは、1741年7月27日の深夜にこの世を去った。遺体は、墓標のない墓に葬られた。

 ビバルディの音楽はその後もピエタで演奏され続けたが、彼の評判は芳しくなかった。ベネチアの劇作家カルロ・ゴルドーニはビバルディについて、「優れたバイオリニストだが並みの作曲家」、イングランドの音楽家チャールズ・エイビソンは「作曲家の中でも最低級」と批評した。さらに英オックスフォード大学音楽学教授のウィリアム・ヘイズは、ビバルディの限界を「偉大な才能の誤用」によるものだったとしている。

 1800年代初頭、バッハの音楽への関心が改めて高まると、バッハがビバルディから影響を受けていたことが明らかになった。そのおかげでビバルディの作品も徐々に掘り起こされるようになったが、1900年代初頭まではまだ曲が演奏されることはめったになく、バロック音楽の専門家以外にはほとんど知られていなかった。

 それが大きく変わったきっかけが、レコードの登場だった。『風と共に去りぬ』や『カサブランカ』などハリウッド映画のサウンドトラックでの演奏で有名な米国のバイオリニスト、ルイス・カウフマンが1947年、ニューヨークのカーネギーホールで『四季』を演奏し、録音した。人々が自宅の蓄音機で気軽に上質な音楽を楽しむようになっていたおかげで、ビバルディの名はほぼ一夜にして世界中に知れ渡った。

 それ以来、ラジオ、テレビCM、映画のサウンドトラックなどで四季やその他の作品が広く聴かれるようになり、クラシック音楽の巨匠としてのビバルディの地位は不動のものとなった。