【芸能界と格闘技界 その深淵】#番外編

 曙太郎(上)

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 2024年4月、第64代横綱の曙太郎が他界した。享年54。以前から闘病中だったことはあまねく知られているが、突然の訃報にファンも関係者も驚いたに違いない。筆者の脳裏をまずよぎったのは、26年前の挿話である。

 1998年2月に開催された長野冬季オリンピック。その開会式の目玉として、東の正横綱・貴乃花光司による、横綱土俵入りがラインアップされていた。

■急病の貴乃花に代わり長野五輪で土俵入り

 世界中の視線が集まる五輪開会式において、日本の顔と言っていい貴乃花によって“国技”をアピールするまたとない機会となるはずだったが、その貴乃花が急性気道炎で倒れてしまう。突然の急病にJOCも日本相撲協会も頭を抱えたはずだ。

 その直後、「私が代わりにやります」と名乗り出た者がいた。西の正横綱・曙太郎である。自分の意思で貴乃花の代打を買って出たのだ。そこに、曙の底意をくみ取ることができる。

 曙と貴乃花とは新弟子時代の同期にして、初土俵も同じく88年大阪場所。新入幕こそ貴乃花に先を越されたが、大関〜横綱昇進ではあっさり抜き返し、95年初場所以降はともに横綱として、熾烈な優勝争いを演じた正真正銘のライバル関係である。

 曙の横綱土俵入り(写真)は、海外のメディアからおおむね好意的に報じられた。日本の国技・大相撲の頂点に君臨する横綱が、実は米・ハワイ出身という意外性は、国際感覚に敏い海外メディアにとって食いつきもよく「かえってよかった」という声も聞かれたくらいである。何はともあれ、曙は、貴乃花及び日本相撲協会の窮地を救ったのである。

 にもかかわらず「初の外国人横綱」である曙に対し、日本相撲協会はどことなく冷淡だった感は否めない。92年九州場所で14勝1敗で優勝をはたし「横綱昇進間違いなし」の声も聞かれる中、横綱審議委員会は「風格、実績共にまだ十分ではない」として昇進を認めなかった。横綱空位が5場所も続いていた事実を鑑みると、賢明な判断とも思えなかった。

 横綱昇進後も「品格」という決まり文句で、何かにつけて外国人横綱は牽制され続けた。昨今の元横綱・白鵬の宮城野部屋の閉鎖騒動を見るにつけ「横綱とはいっても外国人だから」という意識が見え隠れしたことは否定できまい。いや、はっきり言ってしまえば、差別意識はあったと思う。敵は土俵の外にこそ顕著だったのだ。

 加えて、師匠である元高見山の東関親方との対立も深刻だった。差別に耐え、実力で番付を駆け上り、率先して日本人社会に溶け込み、笹川良一をはじめとする斯界の実力者の支援まで得ながら社会的地位を築いた親方にとって、愛弟子の姿勢はどこか甘く映っていたのだろう。そのことを責めるつもりは毛頭ないが本来は弟子を守るべき師匠の所作にしては、ハワイ出身の青年横綱に厳しすぎたかもしれない。

 そんな、典型的な日本閉鎖社会の象徴とも言える角界において、頼みとなるのは自らの実力以外なかった。幕内優勝回数11回はその勲章であり、生涯のライバルである貴乃花が、双方認め合う戦友として意識付けられたのは、さほど不自然なことではなかった。五輪開会式の代打出馬は必然だった。

 00年九州場所で最後の幕内優勝をはたした曙だが、01年初場所は全休。その直後、両膝の回復が見込めないことを理由に現役引退を表明する。引退後は曙親方として、東関部屋で後進の指導にあたっていた。誰もがあの圧倒的存在を忘れかかっていた。

 しかし、現役引退から2年後、驚天動地の事件が起こる。

 相撲協会に退職届を出して、K-1に参戦したのである。=つづく

(細田昌志/ノンフィクション作家)