このコラムも、あと2回で打ち止めとする。

「ワールドカップはとっくに終わってるのに、まだ書くのか!」と言われそうだが、自分では珍道中の最終回を書いてしまったら、しんどく、楽しく、そして濃かったフランスでの日々が終わってしまう――それが嫌だったのかもしれない。実際、現地に赴いた報道陣と東京で話すと、いまだに会話は熱を帯びる。

 トラブル頻発もその理由だが、それぞれの記者、フォトグラファーに「忘れがたい時」があったからだろう。

 私が感じたのは、旅には「流れ」というものがあり、それに乗っかることで、思ってもみない出会いが生まれるということだ。

「もはや1泊5万円のホテルしかない…」

 始まりは9月23日だった。

 この日、私はパリに南アフリカ対アイルランド戦を取材しに行くことになった。じつは、この試合の取材申請については、文藝春秋写真部員Mくんと相談し、「パリに行くのは日程的にも、金銭的にも負担が大きい」という理由で8月中に「キャンセル」していた。ところが9月18日になり、キャンセルしたはずの申請が認められたのである。

 もう、無茶苦茶である。

 Mくんとふたり、「認めてほしくなかったね」とぶつぶつ言っていたのだが、この試合は「なんだかすごいことになる」という予感が働き、せっかくだから行ってみようということになった(その予感は現実のものとなった)。

 しかし、私にとっての「事件」がスタッド・ド・フランスの記者席で起きた。

 試合開始前の20時過ぎ、翌日21時にリヨンでキックオフのオーストラリア対ウェールズ戦の取材申請が突如、「許可」になったのだ。

 えっ? 25時間前だぜ。

 困った。まさか、このタイミングで認められるとは思っておらず、列車もホテルも押さえていない。調べると、予算重視のイビスホテルが1泊5万円を超えている。嘘だろ……。正直、迷った。それでも、エディー・ジョーンズ氏率いるオーストラリアはフィジーに敗れて崖っぷちに立たされている。これを見逃す手はないかもしれない。そう思って、イビスホテルと12時52分パリ・リヨン駅発の特急を予約した(この列車もきっちり30分遅れた)。

 私は流れに乗ることにしたのである。

 リヨンでは、エディーさんが場内からのブーイングと、メディアの執拗な攻撃に晒されていた。私はといえば、試合後にUberの車がなかなかつかまらず、市内に戻るのに30ユーロほどの相場のところ、110ユーロを払わなければならなかった。需要と供給の原理をまざまざと見せつけられた。

「フランスに比べるとつまらない」

 しかし、リヨンまで行ったことで、私は貴重な思い出を手にすることになる。

 まず翌朝、列車に2時間ほど乗り、スイスのジュネーブまで足を延ばした。私にとっての「ワインマスター」が、ジュネーブで子育て中なので、旧交を温めようと思ったのである。

 マスターに何年ぶりかに会い、ジュネーブの街に踏み出して驚いた。

 東京に似ている。

 ゴミは落ちておらず、人々は物静かで整然としている。そう感想を漏らすと、マスターも首肯した。

「物価は高いけど、生活しやすいです。でも、フランスに比べるとつまらないかも」

 そうなのだ。ハプニング続きのフランスに慣れてしまったのか、日々、刺激を求めるようになっていた。

 ホットチョコレートを飲んで、ジュネーブでの滞在はわずか2時間ほど。それでも「旧交」は一度温めておけば、次が生まれる。それを実感し、私はわが街トゥールーズに帰るために、乗換駅であるリヨンに戻った。

 列車まで時間があったので旧市街をぶらぶらしたり、弁当を買ったりして、駅売店を覗いた。そこに赤い表紙の分厚い本があった。

 ミシュランだった。

 この一冊が、予想もしない出会いを導いてくれることになる。

なぜ日本のミシュランは物足りないのか?

 ミシュランは、1264ページもあった。

 以前だったら、買うことを躊躇しただろう。重いし、フランス語だから何が書いてあるか分からない。ところが、いまではGoogle翻訳で瞬時にどんな評価がされているかが分かる(時に、珍訳はあるにせよ)。

 そして本家のミシュランを読み始めると、感動を覚えた。

 フランスの「食」と「宿」がこの小さな世界に凝縮されていた。言い換えれば、フランスの実力が1200ページに詰まっていたのだ。

 それと同時に日本の「ミシュラン」が物足りない理由が分かった。

 ボリュームもそうだが、中身は寸評だけではなく、シェフ、ソムリエの人生が語られている記事が充実していた。そして語られている言葉の、なんと豊潤なことか!

 私はその先に遠征で出向く、ボルドー、マルセイユ、ナント、アンジェ、そしてパリの記事、寸評、評価を読み漁った。

 そして日本がアルゼンチンと戦ったナントと、その近郊のアンジェに目星の店を見つけた。

「ここは、いい街ですね」

 アンジェはナントから快速電車で45分ほどの街。東京の中央線にたとえるなら、東京駅と立川駅ほどの距離感である。

 アルゼンチン戦が行われる週末は、ナントの宿が狂乱物価となっており(1泊5万が相場になっていた)、木曜にマルセイユで三笘薫の試合を見た後、金曜、土曜とアンジェに泊まり、日曜、月曜は物価が落ち着いたナントに移ってから、火曜日にトゥールーズに戻ることにした(この6日間の移動距離はおよそ2200キロ。函館から鹿児島までを新幹線で移動したに等しい)。

 アンジェはフィギュアスケートのフランス・グランプリが行われる場所でもあるが、駅に降り立った瞬間、空気が澄んでいた。Mくんがいう。

「ここは、いい街ですね」

 マルセイユの混沌を見た後だったからかもしれないが、われわれはアンジェに魅せられた。川が流れ、お城、聖堂が鎮座する。

「仕方がないね…」フランス人の優しさ

 この街で、私は危機を救ってもらった。マルセイユでメガネのつるを止めるねじが外れ、ピンチに陥っていた(幸い、部品は回収していた)。様々なリスクを想定して旅の準備はしていくが、予備のメガネまでは持ってきていない。どうにかテープで止めてしのいでいたが金曜の夕方、私はアンジェのホテルにチェックインすると、すぐさまメガネ屋さんをGoogleで探し、翻訳アプリにこう打ち込んだ。

「旅の者です。メガネが壊れて困っています。直せますか?」

 カウンターにメガネを置くと、つるが外れ、対応に出た女性がハッと息を飲んでから、奥に下がった。

 待つこと5分。奥からかなりのイケメンが涼しい顔で登場した。

 メガネが直っていた。しかも、きれいになって。

 安堵したのは言うまでもない。私が「いくらですか?」と聞くと、女性は首を振っている。受け取らないというのだ。押し問答があり、困った私はGoogle翻訳にこう打ち込んだ。「これでコーヒーでも飲んでください」。

 そして私は5ユーロ札をカウンターに置いた。フランスで、久しぶりに出した現金だった。

 彼女は相変わらず困惑していたが、イケメン職人が「仕方がないね」という風情でかすかな笑顔を見せたので、彼女は「じゃあ」と言って受け取ってくれた。

 なんだか、とてもうれしかった。

「危うく、食い逃げ犯になるところだった」

 その週末は濃い時間が過ぎた。アルゼンチン戦の興奮と落胆、その夜のざわめき。

 翌日、私は粛々と記事を書き上げ、午後からはフリーとなった(その朝、五郎丸歩氏へのオンライン・インタビューがあったが、私が時間を間違えるという失態を犯した。五郎丸さん、すみませんでした)。

 そこから気分は解放区である。

 まず、ランチはミシュランで探した「SAIN」という店にチャレンジした。

 こぢんまりしたお店で、器、皿が和風。キャベツを使った料理にはみりんが使われていた。ひと皿ごとに感想を求められるので、私はGoogle翻訳で「繊細な味わいだね」とか、「このお皿は日本で買ったの?」とか感想をスタッフに伝えていると、会話が弾んできた(スマホはフランス語で見せるが、会話は英語である)。

 そして食事が終わると、厨房を預かる兄と、ホール担当の弟のユイトリック兄弟と記念撮影までしてしまった(あまりに会話が弾みすぎ、弟と私は会計するのを忘れてしまった。店を出たところで弟が気づき、私は支払いを済ませた。危うく、食い逃げ犯になるところだった)。

「フランス料理、まずいでしょ?」

 そしてナントからアンジェに移動し、夜8時からは、これもミシュランで見つけた鉄板焼の「KAZUMI」に予約を入れていた。その日、Mくんはルマンに足を延ばし、サーキットや博物館を見学していたので、8時に現地集合とした。Mくんはこの取材旅行でモナコとルマンを制覇したことになる。

 8時まで時間があったので、アンジェでウディ・アレンの新作”Coup de Chance”を見て時間をつぶして、KAZUMIへと向かった。

 ミシュランの紹介にはこうあった。

「この日本料理レストランの店構えは目立たないけれど、その奥には、ボジョレーの伝統的な店で研鑽を積んだ日本人シェフ、カズミ・ハタケナカがいる。彼は日仏二重の食文化の物語を伝えている」

 この翻訳を読み、私は心を惹かれた。ミシュランはこう続いていた。

「繊細な日本的なタッチ……上質な調理と味つけ。ディナーは3時間に及ぶ素敵なグルメの旅です」

 夜8時定刻にMくんと落ち合ってお店の扉を押すと、ハタケナカ・シェフと思われる男性がカウンター越しに私たちを迎えてくれた。

「こちらにお住まいですか?」と質問され、「いえ、ラグビーW杯の取材でナントに来ました」と答えると、「ああ、昨日だったですもんね」と会話が始まった。

 シェフは畠中和美さん。私が「おやっ?」と思ったのは、お店にはシェフひとりだけだったことだ。ひとりですべてに対応しているようだ。

 驚いたのは、シェフから「フランス料理、まずいでしょ?」と言われたことだ。どう答えたらいいかまごまごしているうちに、一皿目が運ばれてきた。

「人生最高のガーリックライス」

 なんと、海老天だった。

 まさか、フランスで正真正銘の天ぷらが食べられるとは!

 その後も魚、野菜、肉が滋味深く提供され、夜が更けていく。ワインを飲もうかと思ったが、シェフが「私は飲まないので」と、岡山・辻本店の「御前酒」を頂戴することになった。気分はもう、日本である。

 そして夜10時を過ぎ、デザートの時間が近づいてくると、畠中シェフがこう言った。

「ガーリックライス、食べませんか?」

 Mくんが言う。

「あるんですか!」

 シェフが答える。

「久しぶりに、作りたくなって」

 私も、久しぶりに食べたかった。ただし、問題があった。私たちはその夜、ナントのホテルに帰らなければならなかった。ガーリックライスをいただいたら、間に合わないかもしれない。フランスで終電を気にしなければならない浅ましさ……。その懸念伝えると、「ええっ!」とシェフも驚く。数秒の沈黙のあと、畠中シェフの口から出たひと言に私たちは驚いた。

「送りますよ」

 ナントまで1時間ほどかかる。お店の片付けもあるだろう。往復したら、シェフがアンジェに戻るのは2時過ぎに違いない。それはありがたいですが……と、もごもごしていると、シェフが力強く言う。

「ガーリックライス、作りたいんですよ。作らせてください。それに、たまにはいいんですよ、違ったことが起きた方が」

 そうして、にんにくの香ばしい香りが店内を満たした。

 ガーリックライスが提供されたのは、Mくんと私だけだった。ほかのゲスト、8人のフランス人たちの視線は私たちに注がれたが、これは本当に特別なひと皿だった。私たちはものすごい勢いでかっこんだ。これ以上のガーリックライスを食べた記憶はなかった。

「フランス人の妻を看取った」畠中シェフの半生

 日付は10月10日になり、真夜中のナントへのドライブは、忘れがたいものとなった。途中、午前1時過ぎに私がNHKラジオ第1の生放送に車内から出演するという荒技もありつつ、Mくんと私は畠中シェフのたどってきた人生に耳を傾けた。

 シェフは福井県出身。「学校では、決して真っ直ぐではなかったですが、先生方が優しかった」。弟さんは現在も福井に住み、なんと福井県ラグビー協会の役員だという。

 シェフは大阪の日航ホテルを皮切りに料理への道に入った。

「いろいろなお客様がいらっしゃいました。芸能人、政治家、その筋の方。面白かったですよ」

 10代の時からあこがれていたフランスに拠点を移した時は「もう若くはなかったです」という。食の都・リヨンなどで働き、フランス人の女性と結婚、自分でお店を構えるまでになった。だが2012年、連れ添った奥様を看取ることになった。「どうしようか」と考えた。

「彼女の故郷がアンジェでした。アンジェにあるお墓に眠ってもらい、彼女との縁がある場所でお店をひとりでやろうと思いました。その前には、人を雇ったこともありましたが、トラブル続きでした。薬物、お酒に依存している人もいましたし、レジのお金がなくなっていることも珍しくなくてね。だから、ひとりでお店をやりたかったんです。アンジェでね」

 日本人のお客さんはほとんどおらず、アンジェの常連さんたちがお店を支えてくれるようになった。

御礼は「お店を再訪すること」

 そして数年ののち、ミシュランに掲載され……私はミシュランでKAZUMIと、そして畠中シェフと出会った。リヨンの売店で1200ページの世界で最も有名なガイドブックを買っていなければ、この夜のドライブはなかった。

 ひとつの流れが、この旅にはあった。

 もっと、もっと話を聞いていたかったが、時計の針は1時半に近づき、車は私たちのホテルの前に止まった。なんだか、名残り惜しかった。

 車から降り、畠中シェフとがっちりと握手をした。

 Mくんと私は、シェフの車が見えなくなるまで見送った。

 文藝春秋写真部員Mくんが言った。

「シェフ、すごい人ですね」

 畠中和美シェフはタフで、優しい人だった。

 この夜の御礼は、お店を再訪することだと胸に刻みながら。

<続く>

文=生島淳

photograph by Kiichi Matsumoto