高卒2年目にして岡田彰布監督が大きな期待を寄せるタイガースの本格派左腕・門別啓人(19歳)。生まれ育った北の大地で、縁の深い人々を訪ね歩くと、知られざるエピソードとその素顔が浮かび上がって来た。
(初出:発売中のNumber1093号[虎の秘蔵っ子の原点を辿る]門別啓人「やさしさに包まれたなら」より)

マイペースだけど、野球になるとスイッチが入る少年

 門別啓人は、いつもこの町を走っていた。

 雪の中を、夏の緑の中を、潮風の中を。

 北海道の南部、旧門別町にあたる日高町の富川地区は競馬と牧場と、食卓にししゃもが上がる海辺の町だ。スポーツセンターの長い坂を越えて、セイコーマートを抜け、マックスバリュの前を通り、右に見える競馬場、左には日高の海。そして町の日常には、いつもジャージ姿で走る啓人の姿があった。

 母の実保は懐かしそうに笑う。

「気がついたら走っていました。いつもはマイペースだけど、野球になるとスイッチが入る。ゲームもやらない、学校を休んだ時だって野球はやりたいって言いだす。それぐらい野球が好きですね。今思えば、いろんな思いをぶつけていたのかな。嫌なことや考えることがあると、バーッと走りに行って、しばらく帰ってこないから」

「こいつは絶対にプロの投手になると確信した」

 今から丁度20年前。啓人はこの町に生まれた。生まれついての左利きは父の竜也が野球の為にあえて矯正はしなかった。その才能はよちよち歩きだった2歳の時に遊びのキャッチボールで発覚したという。門別家と家族ぐるみの付き合いである金村佳嗣はボールを受けた時の衝撃を真剣な表情で語る。

「これは冗談じゃなくてですね。最初から力任せにせず、腕をしならせて投げたんですよ。しかもボールに指が掛かっているから、スピンの利いたボールがブワッと浮いてくる。啓人の糸を引くようなストレートは天性のものですよ。こいつは絶対にプロの投手になると確信しました」

 啓人の野球人生を語るに欠かせないのが金村家の三男、1歳上の金村翔弥の存在である。兄弟のように仲良く育った2人は「プロ野球選手になる」ことを合言葉に明けても暮れても野球に打ち込んだ。

 小学1年生になった啓人は翔弥のいた富川野球スポーツ少年団に入団した。素質のあった啓人はめきめきと実力をつけ、4年生でピッチャーとなり、6年生で合併してできた日高ブレイヴを全道大会制覇に導いた。120km台後半を投げる豪腕として北海道にその名を轟かせ、ファイターズジュニアのエース番号「1」を背負った。

 数多の名門チームから誘いがあるなか、啓人は翔弥と同じく、地元の富川中の軟式野球部に入部した。金村が外部コーチとして指導していたチームだった。

「正直に言うと、自分が教えられることってほとんどなくて、教えたことと言えば、ケガをしないためのケアの仕方と、野球に対する姿勢。道具の手入れとか、そういうことは厳しくしました」

 啓人とともに富川中に上がってきたメンバーは5人。同世代でもトップを走る啓人の存在に触発されて成長してきた仲間たちは、5人中4人がU-14の北海道選抜に選ばれている。小学校から高校までバッテリーを組んでいた菊地晋は振り返る。

「学校生活も含めて怒ったのは一度だけ」

「ライバルという感じではないですね。追いつけないのは分かっていたので。でも啓人がいるから勝ててると思われたくなくて、僕らも必死に練習してました。たまに啓人に誘われて一緒に走ったりも。あいつ速くて。どんどん離れていくんですけど、でも先の方で待っていてくれる。仲間内でもずっとニコニコしていて、いいやつですよ」

 学校では一番目立つグループにいたが、前に出ることも悪さもせずいつもニコニコ。友達と衝突もせず。中学生特有の反抗期もなく、模範的な生徒だった。

 野球部監督であり、3年間担任だった加賀荘史教諭は言う。

「学校生活も含めて怒ったのは一度だけ、練習試合にスパイクを忘れてきた時だけですね。金村さんは試合に出さなくていいと言ったんですが、すごく反省してるみたいだったので途中から出したんです。そしたら翌日『昨日はごめんなさい。試合に出してくれてありがとうございました』って、当時部員とのやり取りに使っていたノートに書いてきてくれて」

 そんな啓人が中学時代に一度だけ怒りの感情を露わにしたことがあった。

文=村瀬秀信

photograph by SANKEI SHIMBUN