「史上最年少、15歳でのドラフト指名」の5年後、20歳の辻本賢人は阪神タイガースから戦力外通告を受けた。何者かになるためにもがき続けた若者は、アメリカで復活のキッカケを掴み……。あのドラフトから20年。35歳になった辻本が、野球を通じて得た“本当の財産”と、知られざる現在の生活について語った。(全3回の3回目/#1、#2へ)

復活へと導いた「藪さんの誘いとジェフの助言」

「通訳をやってみる気はないか」

 阪神に15歳で入団した辻本賢人は戦力外になった時、まだ20歳だった。球団からの申し出に感謝しつつ、戸惑ったのも確かだ。この世界に飛び込んで、まだ何者にもなれていない――だから、打診も受け入れられなかった。

 2009年秋、12球団合同トライアウトを2度受けたが、130kmをわずかに超える球速はアピールに欠き、オファーは届かなかった。

「僕はあの時、正直、野球を続ける気力はなくなっていたんです。一人だったら、絶対に辞めています」

 希望を失い、出口が見えない暗闇を彷徨う中、救いの手を差し伸べてきたのは阪神OBの藪恵壹だった。

「思い切ってアメリカに行ってやればどうだ」

 10年2月、辻本が藪とアリゾナに行くと、阪神で活躍後、左肩の手術から再起を期すジェフ・ウィリアムスがいた。

 辻本はかつての同僚に言われた。

「横から投げてみたらいいんじゃないか」

 ウィリアムスは最強リリーフトリオJFKの一角として05年の優勝に貢献した、サイドスロー左腕である。試しに横から投げてみた。すると痛いはずの体がなんともなかった。

「タイガース時代の最後が一番、悪かった時期でした。横から投げて球が走るようになりましたし、いままで考えすぎていた部分であったり、変に追いかけていた部分を捨てて、初めて純粋に野球をできました」

最速151kmの速球でメッツとマイナー契約

 人が変わるキッカケは近くにある。

 やがて球威が蘇った。唸るようなストレートは最速151kmを計測し、打者を圧倒するようになった。独立リーグでゴールデンベースボールリーグのマウイからドラフト1位指名され、主力として活躍。32試合に投げて3勝2敗、防御率2.88と奮闘した。34回1/3を投げて奪三振は48個。1年前までとは見違える姿を見せた。

「まだ拾ってくれる球団があるんやったら、野球をやろうと思いました」

 常夏のハワイで夢を繋いだ。ある時、アメリカ本土でメジャーリーグのトライアウトがあると聞きつけると、呼ばれてもいないのに自費で参加し、11年2月にはニューヨーク・メッツとのマイナー契約を勝ち取った。最後は右肘を手術し、13年にユニフォームを脱いだが、もう思い残すことはなかった。

 辻本は人と人が取り持つ縁の中に生き、阪神や米球界に挑戦する日々のなかで、ようやく何者かになれた気がした。

辻本賢人が野球人生で手にしたもの

 彼とロングインタビューで向き合うのは8年ぶりである。2016年の秋は神戸の旧居留地にある、昭和初期に建てられた洋風建築をリノベーションしたカフェにいた。

 阪神での5年間で得たものについて問うと、27歳だった彼はこう答えた。

「ケガばかりでリハビリしている思い出しかありません。そのおかげで、いろいろ身につきましたね」

 自嘲交じりにつぶやく。

「何が身についたの?」

 そう聞くと、おどけながら返してきた。

「ストレッチの方法(笑)。病院もめっちゃ詳しくなりました。ここが悪くなったら、この病院がいいとか……」

 あれから月日を重ね、再び同じ問いを投げかけてみた。すると、35歳になった彼はこう答えた。

「タイガースでいっぱい叱られながらも愛を感じた時とか、藪さんやジェフに引きずられて野球をやった時のように、本来なら関わらなくてもいいはずなのに、関わってもらった時、人間ってこういう道もあるんやと気づかされました。多くの人に関わってもらったからこそ、僕はマイナー契約までいけて、すごい経験をさせてもらいました。だから、僕はいま、一緒に仕事をしている人には、何かをやってあげたいと思うようになりましたね」

 阪神での5年間は、彼が毎日を生きていく中で少しずつ形を変えていった。8年前に見えなかったことが、いまでは見えるようになっていた。「15歳のプロ野球選手」が悩みながらも心を奮い立たせた時間は、過ぎ去った日々ではなく、20年経ったいまも彼の心に息づいている。

「子どもとの時間を大切に」野球から離れた現在の生活

 いま、辻本は9年前に結婚した妻や子どもたちと、穏やかに暮らしている。

「早朝から海外とやり取りをした後は、子どもを学校に連れて行って、帰ってきたら日本の企業と打ち合わせをします。子どもと一緒に夜8時か9時に寝て、朝4時に起きてというのをずっと続けています。子どもと過ごす時間を大切にしたくて」

 昨年11月、辻本が子どもと神戸の街を歩いていたら、人で溢れかえっていた。祝日とはいえ、普段にはない混雑ぶりに何事だろうと思った。やがて理由が分かった。タテジマのユニフォームを身にまとい、黄色いタオルを掲げる人が次々と目に入ったのだ。その日は、日本一に上りつめた阪神の優勝パレードだった。すっかり野球と縁遠くなった彼は頭をかきながら笑う。

「タイガースの優勝も、日本シリーズに行った時くらいまで知りませんでした。僕、携帯電話もほとんど見ないし、テレビもほとんどつけないんです」

 阪神のリーグ優勝は18年ぶりで、日本一は実に38年ぶりだった。浮世離れしたところがある彼は目じりを下げた。

「すごいことですよね。僕、選手は誰ひとり一緒にやっていません。ただ、コーチ陣の方々は全員と言っていいくらいに現役の時期がかぶっています。顔なじみの方が多いので、すごく嬉しいです」

 そう言うと、不意になにかを思い出したかのように自ら切り出した。

「いま、福原さんは何をされてますか?」

 そこからは、私が水を向けるまでもなく、次々と名前を挙げては近況の質問攻めである。安藤さん、金澤さん、橋本さん、葛西さん、遠山さん、星野伸さん、加藤さん、伊藤さん、上田部長、寮長の山本さん、西口さん……。もう20年も前のことなのにすらすらと名前が出てきた。

阪神時代から書き続けた“膨大なメモ”

 辻本の自宅の棚にはノートがぎっしりと一段に並ぶ。15歳の頃から、思いついたことを書きとめてきたものだという。

「タイガースにいた時から続けていて、いまも自分が思いついた、面白いことを全部、メモしているんです。最近はオーディオブックとか、ポッドキャストを聴いて、面白いと思ったところを文字に起こして保存したりしてますね」

 15歳の頃から、好奇心が尽きなかった。練習後の夜は読書に明け暮れていた。野村克也監督の著書を読んでいると、古代中国の戦争のエピソードが出てきた。そこから、戦略に関する本を手に取るといったように興味の幅を広げていった。当時、こんなことも考えていたのだという。

「ずっと球団の編成部の方に言ってきたことがあるんです。『日本と韓国が1リーグでやればいいんじゃないですか』と。そうしたら、メジャーリーグに勝つこともできるんじゃないかと思います。中学の頃、アメリカにいた時に思いついたんです」

「15歳のプロ野球選手」は思考も型破りだった。この世には「右へ倣え」をせずに、自ら道を作る生き方がある。プロ野球選手は引退後の方が人生は長い。時折、そのセカンドキャリアが話題になる中、辻本はあくせくせず、なんだか軽やかだ。きっと自分だけの時間を生き、豊饒な世界を育んできたのだろう。

 午前4時に起きる翻訳家と向き合っていてふと気づいた。贅肉がまったくなく、引き締まっている。

「体を動かしているんです。走ったり、筋トレをしたり……。柔軟体操もめちゃくちゃできるし、逆立ちも懸垂もやってます。僕、いまの方が現役の時よりシャープやし、多分、球も速いんちゃうかな」

 冗談を交え、ガハハハッと笑った。

 爽やかな笑顔を残したまま、神戸の街の雑踏に溶け込み、ふっと姿を消した。

<第1回、第2回とあわせてお読みください>

文=酒井俊作

photograph by Kiichi Matsumoto