MLBサンフランシスコ・ジャイアンツの李(イ)政厚(ジョンフ)が韓国メディアへのインタビューで発した言葉が、日本国内でSNSを中心に反響を呼んでいる。

 いわく「私は新人」「なぜ私と大谷(翔平)選手を比較するのかわからない。大谷選手が知れば、気分が悪いかもしれないと思う」「ライバルという意識は全くない」などなど。

 これまで韓国人アスリートといえば、メディアに煽られるがまま日本や日本人アスリートへの対抗意識をむき出しにしてきた。ところが、李政厚の姿勢は謙虚そのもの。韓国国内での一般的な反応を考えれば、対日本人選手に関して謙遜して得をすることはなく、つまりは本心である可能性が高いとも言える。

政厚の父は元中日の「風の子」

 そんな李政厚の出生地は愛知県名古屋市である。父・李(イ)鍾範(ジョンボム)が中日ドラゴンズでプレーした野球選手だったからだ。李政厚は「鷹が鷹を生んだ」二世選手ということになる。

 右打ちの野手だった李鍾範は、韓国ではヘテ・タイガース(現在は起亜タイガース)に所属し、通算1797安打、194本塁打、510盗塁という記録を残した。首位打者1度、盗塁王4度。「風の子」の愛称で国民に愛された名選手は、1998年に大型契約を結んで中日に移籍した。2001年途中まで在籍したが、1年目の6月の阪神戦で死球を受け、右肘を骨折。同年の8月に誕生したのが息子の李政厚である。当時を知る関係者に話を聞いた。

「僕はトレードで阪神から、鐘範は韓国から、同じ年に中日に入っているんですよ。当然、水面下で交渉していたんでしょうが発表されたのは僕の方が少し早かった。だから鐘範の入団を知った時は『マジかよ……』と思いましたね。だって同じショートなんですから」

 堅守で知られ、阪神でもコーチを務めた久慈照嘉氏である。

 鳴り物入りで獲得した韓国のスーパースターがショートを守るのは既定路線。「案の定」久慈氏はセカンドの練習をするよう指示され、生え抜きスターの立浪和義は玉突きでレフトへと押し出された。まさしく「鐘範のため」の措置である。ただし「それはそれとして」グラウンド内外で付き合えたという。

「いいやつだったし、一緒に練習をして、正直僕がまたショートをやるのも時間の問題だなと思ったのもあります。脚力はあった。肩も強かった。でもフットワークとかを見ると、『ショートは無理だろう』と。どこまで首脳陣が我慢するかだなって」

 ある意味でそのきっかけとなったのが前述の6月の骨折だった。

不振のストレスで「10円ハゲ」を作ることも

 離脱を機に久慈氏はショートへ、立浪はセカンドへとUターン。久慈氏は日本の投手の変化球とコントロールの良さにも苦しむ李鍾範の姿もすぐ近くで見ていた。

「ものすごく悩んでいましたよ。当時の中日はサインプレーも細かかったし、それを覚えるのも苦労していた。得意の盗塁も牽制球で刺されていた。ストレスで10円ハゲができていましたもん」

 見るに見かねて、いきつけの焼き肉店に誘ってみた。韓国系の経営者も李鍾範の来店を喜んだが、李一家も懐かしい味に舌鼓を打った。

「奥さんと赤ん坊を連れてきてね。ベビーカーに乗っていたのが政厚というわけです。あの赤ん坊が今や“1億ドルの男”ですからね」

 また、李鍾範の骨折離脱は、久慈氏だけでなくもうひとりの名遊撃手の野球人生においても転機となっていた。

「新人の僕は二軍でもショートはやらせてもらえず、セカンドを守っていたんです。ところが(鐘範が)骨折したことでショートを守っていた先輩が一軍に呼ばれた。そこが空いたので、僕はショートをやれるようになったんです」

 こう回想する侍ジャパンの井端弘和監督は、昨年秋のアジアチャンピオンシップの期間中に来日していた李親子と対面。父・鍾範と旧交を温めたそうだ。

 中日では通算53盗塁。成功するたびにヘルメットに「忍者シール」を貼っていたのはファンの間では懐かしい記憶だろう。そこに乗っかって自らを売り込んでいたのが当時は守備、代走要員だった現在中日でコーチを務める大西崇之である。

「そうそう。僕は忍者じゃなくチーターシールをね(笑)。16まで増えたんですよ」

 キャリア最多の盗塁数を記録したのが98年だった。

韓国で言われる「野球は李鍾範」

 同じく中日の落合英二コーチは韓国球界での指導歴も長く、チームメートとしてだけでなく韓国でいかに李鍾範が愛されているかも目の当たりにしてきた。

「韓国ではよくこう言われるんです。『投手は宣(ソン)銅烈(ドンヨル)、打者は李(イ)承燁(スンヨプ)、野球は李鍾範』だって。宣さんは偉大だと思われてます。承燁もそう。鐘範は少し違って、人気者なんです。球場の空気が変わるというか。天才とは少し違う。天才というのなら息子(政厚)の方だと思いますよ」

 日本での通算は286安打、27本塁打。ストレスで髪が抜け落ちるほど悩み、骨折が治ってからも韓国時代ほどの輝きを取り戻すことはできなかった。

 それでも、その息子はNPBを経由することなくMLBとの大型契約を勝ち取った。シーズンが開幕してからも、そこにあぐらをかくことなくまじめで謙虚なメジャーリーガーの姿勢を貫く。その原点には、かつて見た父の背中が間違いなく影響しているのだろう。

 日韓の野球ファンに愛された父はともに渡米し、いまは息子の夢を可能な限りサポートしている。

文=小西斗真

photograph by (R)JIJI PRESS、(L)AFLO