現在、コメンテーター・タレントとしてテレビを中心に活躍する元衆議院議員の杉村太蔵さん。じつはテニスプレーヤーとして高校時代に国体で優勝し、社会人を含めた北海道の大会を制覇するなど将来が期待される選手だった。一体、どのような現役生活を送ってきたのか。本人に話を聞いた。(Number Web「私の部活時代」インタビュー全3回の第1回)

2023年、25年ぶりに公式戦に復帰

 3月下旬、都内のとあるテニスクラブ。平日の昼下がり、60〜70代のテニス愛好家の男女が思い思いのウェアに身を包み、ゆったりとボールを打ち合っている。

 そのほのぼのした雰囲気とは真逆の激しい打球音が、奥のコートから聞こえてくる。そのコートに杉村太蔵の姿があった。

 2023年、毎日新聞社が主催するテニストーナメント「毎日テニス選手権(通称:毎トー)」で、高校生以来25年ぶりに公式大会に出場した杉村。今年も、7月に行われる同大会に向け週1回のペースで練習を続けている。

本気でテニスの練習をする杉村

 この日、杉村が取り組んでいたのはシングルスの実戦を想定した練習だ。バックハンドをストレートに打ち、コーチがボレーをクロス方向に短く返球したところを、前に詰めてフォアハンドを叩き込む。コートを左右に、前後に動き回る、40代の体にはハードな“ガチ練”を、杉村は汗を流しながら黙々とこなしていた。

「あーもう、ヘタクソ!」

 ボールをネットに引っかけて思わず出た叫び声が、雲一つない青空に響きわたる。

 カゴのボールが空になり、しばしの休憩に入ったタイミングで、汗をタオルで拭っている杉村に声をかけてみた。

「すごくハードな練習をしていますね。体力はすぐに戻るものですか?」

「いやぁ、復帰したばかりのときは全然ダメでしたよ。なにせ25年も試合から離れていましたから、試合のカンを戻すのも大変でしたね」

 次に何を聞こうか考えていると、杉村のほうから機先を制すように口を開いた。

「……もう、いいですか? 取材の機会はまた設けるので」

 そう言うと、休憩もそこそこに再びコートに駆け戻っていった。

 テレビで明るく振る舞い、共演者からイジられる「薄口政治評論家」のイメージとは明らかに異なる、真剣にテニスに向き合っている杉村太蔵の姿が、そこにはあった。

歯科医&テニス家系の「杉村家」

「生後間もない頃の僕に、親はラケットとボールを持たせたみたいなんです。そのくらい、テニスは生まれてからずっと身近にありましたね」

 後日、取材に応じてくれた杉村は、笑顔でテニスとの出会いを語ってくれた。

 出身は北海道旭川市。歯科医の傍ら「スギムラローンテニスクラブ」を開業した祖父は、旭川に初めて硬式テニスを持ち込んだ人物。さらに同じく歯科医の父も高校時代には全道大会でシングルス・ダブルス・団体の「三冠」の偉業を成し遂げた、北海道テニス史に名を刻む名選手だ。そんな、歯科医の家系であると同時にテニス家系でもある環境で育った杉村にとって、ラケットを手にしたのは必然のことだった。

「テニス以外の選択肢はなかったといえばそうですが、かといって他のスポーツをやりたいとは思わなかったですね。野球はピッチャーとバッターに分かれるけど、テニスはぜんぶ自分一人でできる。テニスって面白いスポーツだな、と純粋に思えました」

名門校監督が杉村に告げた一言

 祖父と父からテニスプレーヤーのDNAを受け継いだ杉村少年はめきめきと頭角を現し、小学校、中学校と北海道ではほぼ敵なしに。ただ、全国ではそれほど上位まで勝ち上がれず、中学校では「全国中学生テニス選手権大会(全中)」でのベスト16が最高戦績だった。

 その全中での杉村のプレーに、熱視線を送る人物がいた。柳川高校(福岡県)の坂本真一監督だ。

 柳川といえば、福井烈、松岡修造、本村剛一などデビスカップ日本代表選手を数多く輩出してきた高校テニス界の絶対王者だ。その常勝軍団を率いる坂本は、ベスト16で敗退し、肩を落としてコートから出てきた杉村に声をかける。そして冷たいジュースを手渡し、こう語りかけた。

「杉村君。柳川に来なさい」

僕のテニス人生で最も輝かしい瞬間の一つ(笑)

 あの柳川の監督からの直々のスカウト。ジュニア選手としてはこれ以上の栄誉はないだろう。しかし、15歳の杉村少年は、坂本の目をまっすぐ見て言った。

「ありがとうございます。でも、柳川で日本一になるのは当たり前です。地元の北海道で練習を積んで、柳川を倒して日本一になるのが僕の夢なんです」

 失礼な言い方だが、この時点で優勝や準優勝でなくベスト16止まりの選手が、天下の柳川の監督にそう言い放つのはなかなかできることではない。当時から杉村の「大物ぶり」をうかがわせるエピソードだ。坂本はニッコリと微笑み、「そうか、わかった。対戦するのを楽しみに待っているぞ」と杉村少年にエールを送ったという。

「でも、坂本監督からスカウトされたこと自体は、それはもう嬉しかったですよ。僕のテニス人生で最も輝かしい瞬間の一つです(笑)」

史上最年少で北海道大会を制覇

「地元の北海道から日本一に」との宣言どおり、杉村は北海道の名門、札幌市立札幌藻岩高校に進学する。

 高校生になったばかりの杉村は、いきなり大きな結果を出す。毎トーの北海道予選に当たる「北海道毎日テニス選手権大会」で優勝を果たすのだ。しかもジュニアの部ではない。一般部門で、だ。

 15歳7カ月の杉村は、道内の実業団の名だたる選手をあれよあれよと撃破し、頂点に立ったのだ。この最年少優勝記録はいまだに破られていない。

「いわゆるノンプレッシャー状態でしたね。誰も勝つと思っていないし、自分も勝とうと思っていないから、ひたすらボールを引っぱたいて、それがことごとく決まったんです」

 これも持って生まれた強運なのか。いずれにしても大きなタイトルを手にした杉村は、道内の有望ジュニア選手が集まる札幌藻岩高校でも1年生からレギュラーの座をつかむ。

神童扱いも本人は「日本一」しか見えていなかった

 1年生の雑用係も免除されていたというから、さぞ天狗になっていたのでは……? と、杉村のパブリックイメージも相まって、つい邪推してしまう。ところが、それを本人は真っ向から否定する。

「天狗になることはまったくないですね。というのも僕は『柳川を倒して日本一に』という目標を果たすために札幌藻岩に来たんです。とにかく、そこしか見ていませんから」

 目線が「日本一」にあるから、北海道で有名になったところで天狗になりようがない。それだけ、当時の杉村は勝利に対してストイックだったのだ。その勝利への執念は、恩師との出会いでより強いものになっていく。

「太蔵、お前は本気で日本一を目指しているか?」

 札幌藻岩高校の監督の緒方寿人は、高校テニス界では北海道はもとより全国でも名将として知られた。その緒方は、他の選手には口うるさく指導するも、いわゆる天才肌タイプの杉村にはあえて何も言わなかったという。その代わり、同校のOBである実業団や大学の強豪選手を呼び寄せ、杉村との練習の機会をつくった。

「緒方先生が、格上の選手と練習できる環境をつくってくれたのが本当にありがたかったですね。そのことで選手として大きく成長できました」

 杉村にとって、忘れられない恩師との会話がある。

「太蔵、お前は本気で日本一を目指しているか?」

「もちろん目指してますよ。そのために藻岩に来たんですから」

「そうか。でもこの北海道では冬場は満足に練習できないじゃないか。でも、柳川や清風、堀越などの強豪校は年中練習することができる。それでも勝てると思うか?」

その根拠は何だ?

 負けず嫌いの17歳の少年は、反射的に「勝てると思います」と言い返す。すると緒方は、杉村の目を見て言った。

「……その根拠は何だ?」

 確かに雪国の北海道では、冬場は練習の時間が大きく制限される。おまけに、市立高校の札幌藻岩には照明施設がなく、冬場はコートに立てるのが30分という日もざらだ。そんなハンデを抱えながら、私立の強豪校に勝てる根拠とは……?

スウェーデンを見てみろ

 杉村が答えに窮していると、名将はこう言った。

「スウェーデンを見てみろ。ボルグ、ヴィランデル、エドバーグ。雪国でもあれだけのスタープレーヤーを輩出できるんだ。藻岩の目指すテニスは『スウェーデンテニス』なんだよ」

 緒方のいう「スウェーデンテニス」の意味するところは2つある。1つは、型にはめずに個性を大切にすること。ビヨン・ボルグ、マッツ・ヴィランデル、ステファン・エドバーグは、いずれもまったく異なるプレースタイルで1970〜90年代に一時代を築いた。

雪国の北海道でも絶対に日本一になれる

 もう1つは、短い練習時間の密度を最大限に高めること。例えば30分しかコートで練習できない日でも、その前に1時間をかけて徹底的にトレーニングする。クタクタな状況でラケットを握り、コートに立つと、たとえ短い時間でも試合中の極限状態を再現した内容の濃い練習ができるのだ。

「だから、オレは雪国の北海道でも絶対に日本一になれる。そう思っているんだ」

 この緒方の一言と勝利への執念は、17歳の杉村少年に大きな衝撃を与えた。

日本一が確信に変わった

「それまでは、明確な根拠もなくただ日本一、日本一とだけ口にしていたのですが、緒方先生の一言で絶対に日本一になれる、という確信に変わりましたね。練習への取り組み方も大きく変わりました」

 高校2年時にはインターハイのシングルスでベスト16、ダブルスではベスト8に進出。さらに団体ではベスト4に入り、全国区でも「札幌藻岩の杉村太蔵」の名は広く知れわたっていく。「日本一」の山頂を、杉村の目ははっきりととらえていた。

<つづく>

文=堀尾大悟

photograph by Yuki Suenaga