ベルーナドームに西武ファンの憎悪が込められたブーイングが鳴り響く数時間前、試合開始前のグラウンド上には“いつも”の光景が広がっていた。

 4月12日、西武対ソフトバンク。ペナントレース序盤の1試合は、山川穂高の“凱旋”として多くの注目を集めた。女性スキャンダルの末にフリーエージェント(FA)権を行使して移籍した元主砲の帰還に、ライオンズファンはどんな反応を示すのか。試合前、メディアや球団関係者、グラウンドキーパーが話し合う声が至るところから聞こえてきた。

金子と談笑、水上とハグ

 対して、グラウンド上の選手たちは普段通りだった。

 15時頃、古巣・西武の打撃練習中に山川はソフトバンク側ベンチから真っ先に出てくると、まずは松井稼頭央監督のもとへ挨拶に出向いた。平石洋介ヘッド兼打撃戦略コーチとグータッチを交わし、自ら歩み寄ってきた金子侑司と談笑、水上由伸とはハグを交わす場面もあった。まさに旧交を温めるという様子だった。

 唯一去年までと違うのは、山川が「Sh」マークの入った黒のパーカーを着ていることだった。

大学の後輩でもある西武・外崎は…

「実感が湧きましたね。ソフトバンク、行ったんだって。やっぱり、大学から一緒にやっているんで」

 そう振り返ったのは、富士大学時代から1個下の後輩としてともにプレーしてきた外崎修汰だ。彼にとって、山川はプロ入りへの指針となる先輩だった。

 一方、ソフトバンクの関係者は内情をこう話している。

「チーム内では至って普通だよ。すぐに溶け込んだ。選手たちの間にはなんのわだかまりもない。でも、よく練習するよね、山川と近藤(健介)は」

 西武時代から変わらない山川の野球への探究心は、新天地でも周囲に好影響を及ぼしている様子だ。

「さあ、行こう!」

 山川は自身の打撃練習を終えて一度ベンチに引き上げた後、再びグラウンドに姿を現すと一塁ノックを受け始めた。ベルーナドームで公式戦に臨むのは337日ぶりだ。その表情と声は、再びこの場所で野球ができるという喜びにあふれ出ていた。

「それはもちろんです。一日一日を大事にしっかりやっていくっていうのは、より思っていますので」

山川穂高のアナウンスがほぼ聞こえない

 だが、普段どおりの光景はプレーボール直前、スタメン発表が行われると一変した。

 ビジターのソフトバンクの打順が「1番センター周東佑京、2番ショート今宮健太、3番ライト柳田悠岐」と発表されると、次のアナウンスをかき消すようにレフトスタンドから低音のブーイングが鳴り響いた。かつて浅村栄斗(楽天)や森友哉(オリックス)がFA移籍した際も西武ファンは凱旋をブーイングで迎えたが、それらとは異質な感情が込められているように聞こえる。「4番指名打者・山川穂高」のアナウンスは、バックネット裏の場外記者席ではほぼ聞き取れなかった。

 注目の初打席が回ってきたのは初回二死二塁。3番・柳田が空振り三振に倒れるや、打席に向かう山川にレフトスタンドのライオンズファンは耳をつんざくようなブーイングを発した。西武の先発・今井達也が外角低めのストレート、真ん中低めのスライダーでストライクを取るたび、レフトスタンドから大歓声が湧き上がる。

 ワイルドピッチをはさみ、2ボール、2ストライクからの5球目。今井が外角低めにスライダーを投じると、山川は空振り三振に倒れた。

「いいぞ、いいぞ、今井!」

 刹那、レフトスタンドのライオンズファンは大合唱で頼れる右腕投手を讃える。

「いいぞ、いいぞ、今井!」

 まるでリーグ優勝が決まったか、あるいは甲子園球場で阪神ファンを見ているかのような熱狂だ。

 0対0で4回に回ってきた第2打席は「帰れ、帰れ」コールもライオンズファンから起こるなか、今井が外角に曲がりながら落ちるスライダーでストライクカウントを重ねていく。

「打ってみろ」くらいの気持ち

「イエーイ!」「よっしゃー!」

 ライオンズファンが快哉をさけぶ。1ボール、2ストライクからの4球目。今井が外角低めのスライダーで2打席連続三振に仕留めると、ホームチームのファンは何度も拳を天に突き上げた。

「ランナーがいないときは、今井さんなので(ストライク)ゾーンの中で『打ってみろ』くらいの気持ちで自分も行こうかなと思っています」

 試合前、捕手の古賀悠斗はそう語った。この試合開始前時点で打率.195の山川は、なす術なく打ち取られた。

ランナー山川に対し、レフトスタンドから…

 続く3打席目には勢いづくライオンズファンから「当ててもいいぞ!」という声も飛ぶ。当の山川は2球目、外角低めの150km/hの速球をセンター前に弾き返す。今度はライトスタンドのホークスファンが沸いた。

 ヒットの後も、レフトスタンドから走者の山川をけしかける小さな合唱が始まる。

「走れ、走れ、山川!」

 なかには「山川走れよ、逃げ足速いから大丈夫」という野次も響き渡る。二死一塁から中村晃のショートゴロを西武・源田壮亮がセカンドベースを踏んで封殺すると、一塁走者・山川がアウトになったことにレフトの西武ファンは総立ちになり、「イエーイ!」の声とブーイングが半々で湧き上がった。

“運命”のマッチアップ「山川対甲斐野」

 そして、第4打席。野球の神様はこれ以上ない場面を用意した。

 西武が7回裏に1点を先制して迎えた8回。山川の人的補償でホークスから加入した甲斐野央がライオンズのセットアッパーとしてマウンドに上がる。先頭打者の周東がセカンド内野安打、続く今宮が送りバントを成功させると、3番・柳田は左中間を破る同点タイムリー二塁打を放った。

 1対1、一死二塁。山川対甲斐野という“運命”のマッチアップだ。

「山川さんに対してというより、状況が状況だったので、しっかり三振というか、きっちりアウトをとってセカンドランナーを還さないという思いで投げていました」

 試合後、甲斐野はそう話した。ファウルで粘る山川に対し、7球目、内角低めのツーシームで見逃し三振。チャンスをモノにできなかった山川だが、この場面はサバサバと振り返った。

「フルカウントまでしっかりいって。もちろん打ちたかったですけど、最後は低いと思って見切ってストライクだったので、致し方ないかなと思います」

ブーイングは甲斐野への声援に

 頑張れ、頑張れ、甲斐野――。

 レフトスタンドからの大きな声が届き、予期せぬ形で西武に移籍して来た新セットアッパーはピンチ脱出まであと1アウトにこぎつけた。甲斐野が山川を三振に打ち取るという痛快なシーンに、周囲とハイタッチを交わすライオンズファンも見られた。前の3打席と比べてブーイングの声量ははるかに小さかった一方、甲斐野を讃える声が自然に湧き上がった。

ブーイングが「気になる」と言った選手

「ブーイング? 気になりましたね。山川さんとは同じ選手の立場なので、自分だったらきついだろうなって、感情移入しちゃいますね」

 試合後、率直な声を漏らしたのは外崎だ。大学時代からの後輩は、おそらく最も複雑な感情を抱いてきた一人かもしれない。

「(山川の打席は異様な雰囲気?)まあそうですね。僕は何も感じなかったですけど」

 勝負に徹したのは、ソフトバンクの指揮官・小久保裕紀だった。

 では、マウンドで対峙した今井は何を思ったのか。

「(ブーイング?)気にしない、しかないですね。山川さんには常に一発警戒している中で投げたので。でも、楽しかったっすね。また対戦したいなって思います」

山川が堪能した今井との勝負

 初めて対戦した今井と山川は、互いの力を認め合うように笑みを浮かべていた。最高の勝負を堪能したのは、山川も同じだった。

「(ブーイングは)打席に入る前は聞こえますけど、打席に入ってカウントが進んでいくときは集中していますので。結果どうこうより、今井とは初対戦でした。今井、すごい球を持っていたなという印象です。真っすぐの軌道は見たことがないような、うなっている真っすぐだったので。まず速いという印象があり、その後に変化球。(スライダーは)いいところに落ちていましたし、やっぱりいいなと思いました」

 あのすさまじいブーイングも気にならないほど、山川と今井は勝負の世界に没入していた。両者の言葉も踏まえて振り返ると、トップアスリートならではの集中力に改めて感服させられた。

英国でのダービーを彷彿とさせる雰囲気

 言うまでもなく二人の対決は、山川のFA移籍がなければ実現しなかったものだ。もちろん不祥事は山川に非があり、ファンも含めて西武球団に多大な迷惑をかけた事実は一生消せない。

 同時に思い出したのが、筆者が15年ほど前に暮らした英国のサッカースタジアムだった。特に「世界で最も激しいダービー」と言われるセルティック対レンジャーズは、ファンが心の底から愛情と憎しみをぶつけ合い、選手はスタンドの声に背中を押されて激しいプレーを応酬する。宗教も含めて因縁が絡み合う、極上のスポーツ文化が根づいていた。

 山川が“凱旋”したベルーナドームは、本場英国のダービーと同じような雰囲気に包まれていた。試合後、山川はこう振り返っている。

「(ベルーナドームでの試合は)もちろん意識しました。(西武は)敵にしたら、怖いなという印象はもちろんあります。ただ、僕も当然感謝していますし、育ててもらったことに変わりはないので、そこは忘れていません。また明日も勝負があるので、こっちはこっちで必死にやっていくというところかなと思います」

愛と憎悪、力と技、極限の集中力…

 愛と憎悪。ファンが発露する感情は、プロスポーツを演出する何よりの要素だ。暴力や人格攻撃に至らなければ、ブーイングも含めて表現の自由は尊重されるべきだろう。

 力と技。投手と打者による真っ向勝負は、野球の最もわかりやすい魅力である。

 極限の集中力。日本シリーズやクライマックスシリーズ(CS)という大舞台のような緊張感が、ペナントレース序盤の試合で味わえた。

 選手、ファン、メディア、そして球団運営サイド。どの視点から見ても、ここまで盛り上がる試合は年にそう何度もないだろう。

 4月12日、平日の夜に埼玉県所沢市のベルーナドームに2万1691人が訪れ、ソフトバンクが2対1で逆転勝利して終わった一戦には、スポーツの魅力がすべて詰まっていた。

文=中島大輔

photograph by Nanae Suzuki